さるほどに、まことに謀反の事あり。例へば、去んぬる平治元年、右衛門督藤原の信頼卿、左馬頭源の義朝を語らひて、梟悪を企つ。しかれば、清盛、これを追罰し、件の族を配流せしよりこの方、源氏退散して、平家繁昌す。されば、朝恩に誇りて、叡慮を悩まし奉る事、古今に類なし。剰へ、その身、一人師範にあらずして、忝くも、太政大臣の位を汚す。かくの如く、近衛の大将、左右に兄弟相並ぶ事、凡人において、先例になしと雖も、始めてこの義を破る。
そうこうするうちに、謀反は現実のものとなりました。思い起こせば、去る平治元年(1159)に、右衛門督藤原信頼卿が、左馬頭源義朝を味方に付けて、梟悪([人の道に背くこと])を企てました。この時、清盛(平清盛)は、これを追罰し、謀反の者どもを配流して以降、源氏は退散して、平家は栄えました。そして、平家は朝恩に誇り、叡慮を悩ますこと、古今に例のないほどでした。その上に、清盛自身は、人の師範([人の手本になる人])でもあらずして、畏れ多くも、太政大臣の位を汚しました。同じく、近衛大将の、左右に兄弟が並ぶことは、凡人においては、先例のないことでしたが、はじめてこれを破りました(清盛の嫡子重盛が左大将、次男宗盛が右大将。藤原氏以外で兄弟が左右大将に就いたことはなかった)。
(続く)