その中に、畠山の重忠は、父重能・叔父有重、折節、平家の勘当にて、京都に召し置かるる最中なれば、その科をも晴らし、国土の狼藉をも鎮めんと向かひけるが、三浦党、頼朝の謀反に与力せんとて、馳せ向かひけるが、鎌倉の由比と言ふ所にて行き遭ひ、散々に戦ひけるが、重忠討ち落とされて、希有の命生きて、武州に帰りけり。その後、江戸・葛西を始めとして、武蔵の国の者ども、一千余騎、三浦へ押し寄せ、身命を捨てて戦ひければ、三浦討ち負けて、今は、大介一人になりにけり。歳年九十余になりけるが、子孫に向かひて申しけるは、「兵衛佐殿の浮沈、今にあり。己ら一人も、死に残りたらば、見継ぎ奉れ」と申し置いて、腹切り畢んぬ。
その中に、畠山重忠は、父重能(畠山重能)・叔父の有重(小田山有重)が、ちょうど、平家の勘当を受けて、京都に召し置かれていたので(大番役=地方の武士に京の警護を命じたもの。として在京していたらしい)、その科を晴らし、国土の狼藉を鎮めようと向かいました、三浦党が、頼朝の謀反に与力しようと、馳せ向かいましたが、鎌倉の由比と言う所で行き遭い、散々に戦いました(由比ヶ浜の戦い)、重忠(畠山重忠)は討ち落とされて、命からがら生き延びて、武州(武蔵国)に帰りました。その後、江戸・葛西をはじめとして、武蔵国の者ども、一千余騎が、三浦へ押し寄せ、身命を捨てて戦いました、三浦党は討ち負けて、今は、大介(三浦義明)一人になりました。年は九十余になっていましたが、子孫に向かい申すには、「兵衛佐殿(源頼朝)の浮沈は、今にかかっておる。己らの一人でも、死に残ったならば、見継ぎ([助力])せよ」と申し置いて、切腹しました(衣笠城合戦)。
(続く)