太宰喜否、急ぎ大夫種に語る。大きに喜びて、越王に告げければ、士卒色を直し、「万事を出で、一生に遭ふ事、偏へに大夫種が智謀によれり」とぞ喜びける。然るほどに、兵ども、皆国に帰る。太子の王鼠石与には、大夫種を付けて、本国へ返し、我は、素車に乗りて、越の国の璽綬を首に掛け、賎しくも呉王の下臣と称して、軍門に下り給ひにけり。浅ましかりし次第なり。然れども、なほし呉王心許しやなかりけん。「君子、刑人に近付かず」とて、敢へて勾踐に面を見え給はず。剰へ、典獄の官に下されて、きやうこうゑききうして、枯蘇城へ入り給ふ。その姿見る人、袖を濡らさぬはなかりけり。
太宰喜否([太宰]=[古代中国の官名。百官の長])は、急ぎ大夫種に知らせました。大夫種はたいそうよろこんで、越王(勾踐)に知らせれば、士卒([兵士])は顔色を直し、「万事を逃れ、一生を得ること、ひとえに大夫種の智謀によるものぞ」とよろこびました。さるほどに、兵どもは、皆国に帰りました。太子の王鼠石与には、大夫種を付けて、本国へ返し、勾踐は、素車に乗って、越国の璽綬([天子の印])を首に掛け、賎しくも呉王(夫差)の下臣と称して、軍門に下りました。浅ましいことでした。けれども、なおも呉王は心を許しませんでした。「君子、刑人に近付かず」と、あえて勾踐と接見することはありませんでした。その上、典獄([監獄で、事務を扱う官吏])の官に下されて、きやうこうゑききう(行幸駅駈)して、枯蘇城(現江蘇省蘇州市姑蘇区)に入りました。その姿見る人、袖を濡らさぬ者はいませんでした。
(続く)