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「曽我物語」鎌倉の家の事(その2)

源氏には、御舍弟三川守みかはのかみ範頼のりより、九郎判官はんぐわん義経よしつね、木曽義仲よしなか甲斐かひの国には、一条いちでう次郎じらう忠頼ただより小田をだ入道にふだう常陸ひたちの国には、志太しだ三郎さぶらう先生せんじやうを始めとして、以上二十八人、かれこれ討たるる者、百八十余人なり。「この内に、冤貶ゑんへんの者は、わづか三人なり。一条の次郎、三川守、上総介かづさのすけなり。この外は、皆自業じごふ自得果じとくくわなり」とぞのたまひける。さて、鎌倉に居所きよしよを占めて、郎従らうじゆう以下いげ軒を並べ、貴賎袖を連ねけり。これや、政要の言葉に、「漢の文王ぶんわうは、千里のむまを辞し、しん武王ぶわうは、雉頭ちとうかはごろもを焼く」とは、今の御代に知られたり。たみかまどは、朝夕ちやうせきけぶり豊かなり。賢王けんわう世に出づれば、鳳凰ほうわう翼を延べ、賢臣国に来たれば、麒鱗ひづめを研ぐと言ふ事も、この君の時に知られたり。めでたかりし御事なり。



 

源氏では、頼朝の弟三川守範頼(源範頼。謀反の疑いで誅殺された)、九郎判官義経(源義経。頼朝の弟)、木曽義仲(源義仲。頼朝とは従兄弟)、甲斐国には、一条次郎忠頼(一条忠頼)、小田入道、常陸国には、志太三郎先生(志太義広よしひろ=源義広。源為義ためよしの子)をはじめとして、以上二十八人、かれこれ討たれた者、百八十余人でした。「この内に、冤貶([冤罪])の者は、わずか三人よ。一条次郎(一条忠頼)、三川守(源範頼)、上総介(上総広常ひろつね)である。このほかは、皆自業自得果([この善悪の業を原因として起こる結果])である」と申されました。さて、頼朝は鎌倉に居所を占めて、郎従([家来])をはじめ軒を並べ、貴賎の者どもが袖を連ねました。これや、政要(『貞観政要』。唐代に呉兢ごきようが編纂したとされる太宗の言行録らしい)の言葉に、「漢の文王(文帝。前漢第五代皇帝)は、千里走るという馬を退け、晋の武王(西晋の初代皇帝、司馬炎。三国時代、魏の司馬懿の孫)は、雉頭の裘(珍宝らしい)を焼く」と、今の時代に伝わっています。人民の竃からは、朝夕の煙豊かでした。賢王が世に現れれば、鳳凰は翼を広げはばたき、賢臣が国にあれば、麒鱗が蹄を研ぎ駆けると言うことも、この君(源頼朝)の時代に知るところとなりました。良い時代でした。


続く


by santalab | 2015-07-02 15:17 | 曽我物語

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