「まことにこの理弁へ給ふにや。真如、禅定の時は、無二亦無三と説かれてこそ候へ。然るにおきて、自もなく他もなく、法界平等なり。何者かありて、しやうともまた正とも隔てん。万法一如にして、阿字本不生の観をなし給へ」と示し給ひければ、くわう、なほしも邪に入りて、「自らが言葉徒らに成りて、無礼に等しく候ふべきにや」。いよいよ怒りを高くして、尊者の理に受け候はず。これ偏へに驕慢瞋恚の外道と、浅ましくこそ思えけれ。
「まことにこの道理を理解されましたか。真如([万物の本体としての、永久不変の真理])を、禅定([精神を統一し、煩悩を離れて澄んだ心境に入ること])の時は、無二亦無三([無二無三]=[仏となる道はただ一つ一乗であり、二乗、三乗にはないということ])と説かれておられます。さすれば、自もなく他もなく、法界は皆平等です。いずれを、しやう(邪?)ともまた正とも言うことはありません。万法一如([すべてのものは本来その本性が空であって、帰するところは一体であるということ])にして、阿字本不生([密教では、宇宙の あらゆるものは「阿」という字音のなかに含められるとし、すべてのものが本来存在するもので、原理そのものが現れているのだとする考え])を理解なさいませ」と説きました、くわう(波斯匿王。古代インドに栄えたコーサラ国の王)は、なおも邪心を含んで、「わしの言葉に真はないと申すか、無礼と申すか」。ますます激しく怒って、尊者の理を理解しませんでした。これはひとえに驕慢([奢り高ぶって人を見下し、勝手なことをすること])瞋恚([自分の心に逆らうものを怒り恨むこと])の外道([悟りを得ない者])と、浅ましく思えました。
(続く)