静かなる暁、この理を思ひ続けて、みづから心に問ひて曰く、「世を遁れて、山林に交はるは、心を修めて、道を行はんがためなり。然るを、汝の姿は聖に似て、心は濁りに染めり。住みかは、すなはち浄名居士の跡を穢せりといへども、保つところは、わづかに周梨槃特が行ひにだに及ばず。もしこれ貧賤の報いの自ら悩ますか、はたまた、妄心の至りて狂せるか」。
静かなる暁、そんなことを思い続けて、自問自答していわく、「世を遁れて、山林に交わったのも、心を修めて、仏道を行うためではなかったか。けれども、姿ばかりは聖に似て、心は濁ったままではないか。住みかは、浄名居士(維摩居士。古代インドの商人で、釈迦の在家の弟子)の跡を穢すといえども、保つところは、わずかに周梨槃特(釈迦仏の弟子の一人)の行いにさえ及ばぬ。それも貧賤の報いのせいか、それとも、妄心([煩悩にけがされた心])に惑わされているためなのか」。
(続く)