いとかく、遣る方なき御心の中を、よに忍び過ぐし給へければ、晴れ晴れしからぬ御気色を、「ただ、人の御癖にこそは」と、飽かぬことに、誰も思い染み奉り給へど、「忍ぶ捩摺」なんめり。太政大臣の御方こそ、いかにもいかにも、かやうの人のおはせねば、いとつれづれに思さるるままに、「さるべからん人の娘もがな。預かりて傅き立てんは」とさへ、明け暮れ、うらやませ給ふ。源氏の宮の御容、「かく世に勝れ給へり」と、名高く聞こし召して、春宮には、いみじう、ゆかしがり聞こえさせ給へれば、「げにさこそは遂の事 ならめ」と、誰も思したり。内の上も、昔の御遺言思し忘れず、哀れに思されて、今までよそよそにて、見奉らせ給はぬ、いとおぼつかなく本意なう思し召されて、さすがについでなくては、御対面もなきを、「同じくは、おぼつかなからず、見奉らんな」と、内裏住みさせ奉らまほしげにのみのたまはすれば、「いかにも、今少し、御盛りのほどをこそ誰にも見せ奉らめ」と、思しのたまはせつつ、おぼろげならで、いと思し掟てたる御有様なんめり。
こうして、やるせない心の内を、忍んで日々を過ごしていましたが、悲しみに沈む姿を、「これも、性格なのだろう」と、常々、誰かれも思っていました、狭衣にとっては「忍ぶ捩摺」(『みちのくの しのぶもぢずり たれ故に 乱れそめにし われならなくに』=『陸奥の信夫文知摺=捩れ乱れた模様のある 石に布をあてがい、その上から忍草などの葉や茎の色素を摺り付けたもの。のように乱れるのは、いったい誰のせい。わたしのせいではなくすべてあなたのせいです』。『古今和歌集』)の思いなのでした。太政大臣の方(堀川大臣の北の方の一)には、一人も、子がいませんでしたので、常々、「相応の人の娘がいないものか。預かり受けてかわいがってひとかどの娘にしたい」とさえ、明け暮れ思い、うらやましく思っていました。源氏の宮の姿かたちが、「世に優れている」との、噂を聞き付けて、春宮が、たいそう、気を惹かれておられると聞いて、「きっと春宮に参られるもの」と、誰しもが思っていました。内の上(今上天皇)もまた、故院【一条院】の遺言を忘れず、源氏の宮をかわいそうに思われておられました、今まで関わることなく、面倒を見ることもございませんでしたが、とても心配されて本心に適わぬものと思われておりました、さすがに機会もなく、対面することもありませんでしたが、「できれば、本意通り、世話をしたいものだ」と、申されて、内裏住み([入内])を望まれておりました、「どうか、近いうちに、入内させるように」と、帝は、並々ならず、申し置かれました。
(続く)