文永十一年正月二十六日、春宮に位譲り申させ給ふ。二十五日夜、先づ、内侍所・剣璽引き具して、押小路殿へ行幸なりて、またの日、ことさらに二条内裏へ渡されけり。九条の摂政殿参り給ひて、蔵人召して、禁色仰せらる。上は八つにならせ給へば、いと小さく美しげにて、髪結ひて、御引直衣・打御衣・張袴奉れる御気色、大人大人しうめでたくおはするを、花山院の内大臣、扶持し申さるるを、故皇后宮の御兄公守の君などは、あはれに見給ひつつ、故大臣・宮などのおはせましかばと思し出づ。殿上に人々多く参り集まり給ひて、御物参る。その後上達部の拝あり。女房は朝餉より末まで、内大臣公親の娘を始めにて、三十余人並み居たり。いづれとなくとりどりにきよげなり。二十八日よりぞ、内侍所の御拝始められける。
文永十一年(1274)正月二十六日、亀山天皇(第九十代天皇)は春宮(世仁親王。亀山天皇の第二皇子)に位を譲られました。正月二十五日の夜に、まず、内侍所([八咫鏡])・剣璽([草薙剣と八尺瓊曲玉])とともに、押小路殿(現京都市中京区)へ行幸なされて、つぎの日、また二条内裏(二条富小路内裏。現京都市中京区)へ渡されました。九条摂政殿(九条忠家)が参られて、蔵人を呼んで、禁色([天皇や皇族などの衣服の色で、臣下の着用が禁じられたもの])を命じられました。上(第九十一代後宇多天皇)は八つでございますれば、たいそう幼く美しげで、髪を結い、引直衣([裾の後ろを長く引いて着用した直衣。天皇・上皇の日常の着用の仕方])・打衣([衣にのりをつけ砧で打ち、光沢を出したもの])・張袴([のりを引き,板引きにして張りと光沢をもたせたもの])をお召しになられた姿は、大人っぽく立派でございましたが、花山院内大臣(花山院師継)が、扶持([そばにいてたすけささえること])されておりましたが、故皇后宮(洞院佶子)の兄公守の君(洞院公守)などは、悲しくて、故大臣(洞院実雄。洞院佶子の父)・宮(洞院佶子)が生きておられたらと思い出すのでした。殿上に人々多く参り集まって、拝されました。その後上達部の参拝がございました。女房は朝餉([天皇の召し上がる朝の食事])からお休みになられるまで、内大臣公親(三条公親)の娘をはじめ、三十余人おりました。いずれ劣らず美しい者たちでございました。二十八日より、内侍所の御拝を始められました。
(続く)