この頃は、ありし時頼の朝臣の子、時宗、相模守と言ふぞ、世の中計らふ主なりける。故時頼の朝臣は、康元元年に頭下ろして後、忍びて諸国を修行し歩きけり。それも国々の有様、人の愁へなど、詳しく探り見聞かんの謀にてありける。怪しの宿りに立ち寄りては、その家主が有様を問ひ聞き、理ある愁へなどの埋もれたるを聞きひらきては、「我は怪しき身なれど、昔、よろしき主を、持ち奉りし、未だ世にやおはすると、消息奉らん。持て詣でて聞こえ給へ」など言へば、「なでう事なき修行者の、何ばかりかは」とは思ひながら、言ひ合はせて、その文を持ちて東へ行きて、しかじかと教へしままに言ひて見れば、入道殿の御消息なりけり。「あなかまあなかま」とて、長く愁へなきやうに、計らひつ。仏神などの現はれ給へるかとて、皆額を着きて悦びけり。かやうの事、すべて数知らずありしほどに、国々も心遣ひをのみしけり。最明寺の入道とぞ言ひける。
この頃は、あの時頼朝臣(北条時頼。鎌倉幕府第五代執権)の子、時宗(北条時宗。鎌倉幕府第八代執権)、相模守と言ふ人が、世の中を治めておりました。故時頼朝臣は、康元元年(1256)に髪を下ろした後は、忍んで諸国を修行して回っておりました。それも国々の有様、人の愁えなど、詳しく探るため見聞きしようとしてのことでした。粗末な家に立ち寄っては、家主の暮らしぶりを訊ね聞き、もっともな悲しみなど見知らぬ苦労を知っては、「わたしは貧しい身であるが、昔、りっぱな主を、持っておった、まだ世におられると聞き、消息([文])を届けたい。どうか届けてほしい」などと言えば、「どこの馬の骨とも分からぬ修行者が、どういうことか」と思いながら、相手を訊ねて、文を持って東国へ行き、教えられたままに申し聞けば、入道殿(時頼)からの消息でした。「驚くではない」と申して、生涯苦労をしないようにと、計らいました。皆人は仏神が現れたのかと、頭を地に着けてよろこびました。このようなことが、数知れずあるうちに、国々も入道殿に気遣いするようになりました。最明寺入道(最明寺は現神奈川県鎌倉市にある明月院)と申しました。
(続く)