平の氏の初めは、一つにおはしましけれど、日記の家と、世の固めにおはする筋とは、久しく変はりて、方々聞こえ給ふを、いづ方も同じ御代に、帝后同じ氏に栄えさせ給ふめる。平野は、数多の家の氏神にておはすなれど、御名も取り分きて、この神垣の栄え給ふ時なるべし。この后の御母、顕頼の民部卿の御娘におはしますなるべし。醍醐の帝の御母方の家にておはしますのみにあらず。君に仕へ奉り給ふ家、方々しかるべく、重なり給へるなるべし。今の世の事はゆかしく侍るを、え承らで、おぼつかなき事多く侍り。
平氏のはじまりは、お一人でございました(第五十代桓武天皇の第三皇子、葛原親王)が、日記の家([先祖代々の手による家の日記を伝蔵した公家の呼称]。高棟王流桓武平氏)と、世の固めであられる筋(伊勢平氏)とに、長く分かれて、方々風の便りに聞いておりましたが、どちらも同じ御代に、帝后同じ氏としてお栄えになられておられます。平野(現京都市北区にある平野神社)は、数多くの家の氏神でございますが、神々の中でも、この神垣([神社])が栄える時代なのでございましょう。この后(第七十七代後白河院皇太后、平滋子)の母は、顕頼民部卿(藤原顕頼)の娘(藤原祐子)でございました。醍醐の帝(第六十代天皇)の母方の家(醍醐天皇の母は、藤原胤子)であるばかりでございません。君に仕える家は、方々しかるべきお方が、重なるものでございます。今の世は望ましくございますが、わたくしにとりましては恵み少なく、不安なことが多くございますけれど。