院も内も、這ひ渡るほどの近さなれば、御宿直の人々など、日来よりも参り集ひて、御旅の雲井なれど、中々、いと顕証なり。北の対の妻なる紅梅の、いと面白く咲きたるが、院の御前より御覧じ遣らるるほどなれば、雅家の宰相の中将して、いと艶になよびたる薄様に書かせ給ひて、院の上、
色も香も 重ねてにほへ 梅の花 九重になる 宿のしるしに
とて、かの梅に結び付けさせらる。御
返し、弁の内侍
承りて、申すべしと聞き侍りしを、
斜めなりといふ事にて、
大殿、今出川より申されけるとかや。それも忘れ侍りぬるこそ
口惜しけれ。老いはかく憂きものにぞ侍るや。
院(第八十八代後嵯峨院)も内(第八十九代後深草天皇)も、這って渡れるほどの近さでしたので、宿直の女房など、日来よりも参られて、仮の雲井([皇居])ではございましたが、それはもう、九重([顕証]=[際立っている様])そのままでございました。北の対屋の妻戸([寝殿造りで、出入り口として建物の端に設けた両開きの板戸])近くの紅梅が、たいそう美しく咲いておりましたが、院の御前よりご覧になられるほど近くでございますれば、雅家の宰相中将(北畠雅家)を呼んで、とても艶やかでやわらかい薄様に書かせて、院の上(後嵯峨院)、
色も香も重ねて匂え梅の花よ、ここが九重([内裏])となる宿のしるしとして。
と詠んで、かの梅に結び付けさせました。返しを、弁内侍(後深草院弁内侍)が承り、申されることになりましたが、失礼であると、大殿(西園寺
公相?)が、今出川より申されたとか。それも忘れてしまいました残念なことでございます。老いとは悲しいものでございますよ。
(続く)