六波羅の勢これを見て、勝つに乗り、人馬の息をも不継せ、天王寺の北の在家まで、揉みに揉うでぞ追うたりける。楠木思ふほど敵の人馬を疲らかして、二千騎を三手に分けて、一手は天王寺の東より敵を弓手に受けて懸け出づ。一手は西門の石の鳥居より魚鱗懸かりに懸け出づ。一手は住吉の松の陰より懸け出で、鶴翼に立て開き合はす。六波羅の勢を見合あはすれば、対揚すべきまでもなき大勢なりけれども、陣の張り様しどろにて、かへつて小勢に囲まれぬべくぞ見へたりける。隅田・高橋これを見て、「敵後ろに大勢を隠して謀りけるぞ。この辺りは馬の足立ち悪しうして叶はじ。広みへ敵をおびき出だし、勢の分際を見計らふて、懸け合はせ懸け合はせ勝負を決せよ」と、下知しければ、五千余騎の兵ども、敵に後ろを被切ぬ先にと、渡部の橋を指して引き退く。楠木が勢これに利を得て、三方より勝ち鬨を作つて追つ懸くる。
六波羅の勢はこれを見て、勝つに乗り、人馬の息をも継がせず、天王寺の北の在家まで、しゃかりきになって追いかけました。楠木(楠木正成)は思うほどに敵の人馬を疲れさせると、二千騎を三手に分けて、一手は天王寺の東より敵を弓手([左手])に受けて駆け出しました。一手は西門の石の鳥居より魚鱗懸かり([魚鱗の隊形で敵に攻めかかること])に駆け出しました。一手は住吉(現大阪市住吉区にある住吉大社)の松の陰より駆け出て、鶴翼に開いて勢を合わせました。六波羅の勢を見れば、対揚([対等])と思えぬほど大勢でしたが、陣は乱れて、小勢に囲まれるほどに思われました。隅田(隅田通治)・高橋(高橋宗康)はこれを見て、「敵が後ろに大勢を隠して騙しておったとは。この辺りは馬の足立ち悪く敵うまい。広みへ敵をおびき出し、勢の分際([数])を見て、駆け合わせて勝負を決せよ」と、命じたので、五千余騎の兵どもは、敵に後ろを破られる前にと、渡部橋を指して引き退きました。楠木(楠木正成)の勢はこれに勢い付いて、三方より勝ち鬨を作って追いかけました。
(続く)