相摸入道大きに忿つてのたまひけるは、「当家執世すでに九代、海内悉くその命に不随と云ふ事更になし。しかるに近代遠境ややもすれば武命に不随、近国常に下知を軽んずる事奇怪なり。剰へ藩屏の中にして、使節を誅戮する条、罪科非軽に。この時もし緩々の沙汰を致さば、大逆の基と成りぬべし」とて、則ち武蔵・上野両国の勢に仰せて、「新田太郎義貞・舎弟脇屋次郎義助を討つて可進す」とぞ被下知ける。
相摸入道(北条高時。鎌倉幕府第十四代執権)はこれを聞いて、たいそう怒って申すには、「当家が世を執ってすでに九代、海内([国内])残らず命に従わずということなし。だが近頃では遠境の者どもはややもすれば武命に従わず、近国の者どもも下知([命])を軽んじるようになったが怪しからぬことよ。こともあろうか藩屏([直轄の領地])の内で、使節を誅戮するとは、罪科は軽いものではない。もしこれに情けある沙汰をすれば、大逆の種ともなるであろう」と申して、たちまち武蔵・上野両国の勢に命じて、「新田太郎義貞(新田義貞)・舎弟脇屋次郎義助(脇屋義助。新田義貞の弟)を討って参らせよ」と命じました。
(続く)