さらばやがて事の漏れ聞こへぬ前に打つ立てとて、同じき五月八日の卯の刻に、生品の明神の御前にて旗を挙げ、綸旨を披いて三度これを拝し、笠懸野へ打ち出でらる。相随ふ人々、氏族には、大館次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・舎弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義、これらを宗との兵として、百五十騎には過ぎざりけり。この勢にてはいかがと思ふところに、その日の晩景に利根河の方より、馬・物の具爽やかに見へたりける兵二千騎許り、馬煙を立てて馳せ来たる。すはや敵よと目に懸けて見れば、敵には非ずして、越後の国の一族に、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々にてぞおはしける。
さらばすぐに事が漏れ聞こえぬ前に打ち立てと、同じ元弘三年(1333)五月八日の卯の刻([午前六時頃])に、生品明神(現群馬県太田市にある生品神社)の御前で旗上げして、綸旨を開いて三度これを拝し、笠懸野(現群馬県みどり市南部・太田市北西部)へ打ち出ました。相従う人々、氏族には、大館次郎宗氏(大館宗氏)・子息孫次郎幸氏(大館幸氏)・次男弥次郎氏明(大館氏明)・三男彦二郎氏兼(大館氏兼)・堀口三郎貞満(堀口貞満)・舎弟四郎行義(堀口行義)・岩松三郎経家(岩松経家)・里見五郎義胤(里見義胤)・脇屋次郎義助(脇屋義助。新田義貞の弟)・江田三郎光義(江田光義)・桃井次郎尚義(桃井尚義)、これらを主な兵として、百五十騎にも過ぎませんでした。この勢ではどうにもならないと思うところに、その日の晩景([夕刻])利根川の方より、馬・物の具([武具])を晴れ晴れと着こなした兵が二千騎ばかり、馬煙を立てて馳せ来ました。まさか敵かと目に懸けて見れば、敵ではなく、越後国の一族、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々でした。
(続く)