去るほどに京都へ討つ手を可被上事をば差し置いて、新田殿退治の沙汰計りなり。同じき九日軍の評定あつて翌日の巳の刻に、金沢武蔵の守貞将に、五万余騎を差し副へて、下河辺へ被下。これは先づ上総・下総の勢を付けて、敵の後攻めをせよとなり。一方へは桜田治部の大輔貞国を大将にて、長崎二郎高重・同じき孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道に、武蔵・上野両国の勢六万余騎を相副へて、上路より入間河へ被向。これは水沢を前に当てて敵の渡さんところを討てとなり。承久よりこの方東風閑かにして、人皆弓箭をも忘れたるが如くなるに、今始めて干戈動かす珍しさに、兵ども事々しくここを晴れと出で立ちたりしかば、馬・物の具・太刀・刀、皆照り輝く許りなれば、由々しき見物にてぞありける。
やがて京都に討っ手を上せることは差し置いて、新田殿(新田義貞)退治の沙汰ばかりとなりました。同じ元弘三年(1333)五月九日に軍の評定があり翌日の巳の刻([午前十時頃])に、金沢武蔵守貞将(北条貞将=金沢貞将)に、五万余騎を差し添えて、下河辺(現埼玉県北葛飾郡)に下しました。これはまず上総・下総の勢を付けて、敵の後攻め([敵の後ろへまわって攻める軍隊])をするためでした。一方へは桜田治部大輔貞国(北条貞国=桜田貞国)を大将にて、長崎二郎高重(長崎高重)・同じく孫四郎左衛門(長崎泰光)・加治二郎左衛門入道に、武蔵・上野両国の勢六万余騎を添えて、上路より入間川へ向かわせました。これは水沢を前にして敵が渡るところを討つためでした。承久よりこの方東風は閑かにして、人は皆弓矢を忘れたようでしたが、今はじめて干戈([武器])を使う珍しさに、兵どもは格別晴れ晴れと出で立ちました、馬・物の具([武具])・太刀・刀は、皆照り輝くばかりで、みごとな見物でした。
(続く)