去るほどに桜田治部の大輔貞国・加治・長崎ら十二日の軍に打ち負けて引き退く由鎌倉へ聞こへければ、相摸入道・舎弟の四郎左近の大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥の入道・安保左衛門入道・城の越後の守・長崎駿河の守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門の尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開衛門入道・三浦若狭の五郎氏明を差し副へて、重ねて十万余騎を被下、その勢十五日の夜半許りに、分陪に着きければ、当陣の敗軍また力を得て勇み進まんとす。義貞は敵に荒手の大勢加はりたりとは不思寄。十五日の夜未だ明けざるに、分陪へ押し寄せて鬨を作る。鎌倉勢先づ究竟の射手三千人を選つて面に進め、雨の降る如く散々に射させける間、源氏射立てられて駆け得ず。平家これに利を得て、義貞の勢を取り篭め不余とこそ責めたりけれ。新田義貞逞兵を引つ選つて、敵の大勢を懸け破つては裏へ通り、取つて返ては喚て懸け入り、電光の如激、蜘手・輪違ひに、七八度が程ぞ当たりける。されども大敵しかも荒手にて、先度の恥を雪めんと、義を専らにして闘ひける間、義貞遂に打ち負けて堀金を指して引き退く。その勢若干被討て痛手を負ふ者数を不知。その日やがて追うてばし寄せたらば、義貞ここにて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定めて武蔵・上野の者どもが、討つて出ださんずらんと、大様に憑んで時を移す。これぞ平家の運命の尽きぬるところの徴なり。
やがて桜田治部大輔貞国(北条貞国=桜田貞国)・加治(加治二郎左衛門)・長崎(長崎高重)らが十二日の軍に打ち負けて引き退くと鎌倉に知らせたので、相摸入道(北条高時。鎌倉幕府第十四代執権)・弟の四郎左近大夫入道恵性(北条泰家)を大将軍として、塩田陸奥入道(北条国時=塩田国時)・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光(長崎駿河守時光)・左藤左衛門入道(佐藤性妙)・安東左衛門尉高貞(安東高貞)・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開衛門入道・三浦若狭五郎氏明(三浦氏明)を差し添えて、重ねて十万余騎を下しました、その勢は十五日の夜半ばかりに、分陪(現東京都府中市)に着くと、当陣の敗軍はまた力を得て勇み進もうとしました。義貞(新田義貞)は敵に新手の大勢が加わったとは思いもしませんでした。十五日の夜いまだ明けないほどに、分陪へ押し寄せて鬨を作りました。鎌倉勢はまず究竟の射手三千人を選って前面に進め、雨が降る如く散々に射させました、源氏(新田)は射立てられて馬を駆けることができませんでした。平家(北条)はこれに利を得て、義貞の勢を取り込めて余すまじと攻めました。新田義貞は逞兵([たくましく勇ましい兵士])を選って、敵の大勢を駆け破っては裏へ通り、取って返すと喚いて駆け入り、電光の如く激しく、蜘手・輪違い([輪違い]=[二個、もしくは二個以上の輪が互いに交錯してできた文様])に、七八度当てました。けれども大敵しかも新手で、先度の恥を雪めようと、義を専らに戦ったので、義貞は遂に打ち負けて堀金(現新潟県長岡市堀金)を指して引き退きました。その勢若干討たれて痛手を負ふ者は数知れませんでした。その日すぐに後を追って走り寄せていれば、義貞をこの一戦で討つことができたことでしょうが、今は敵は何ほどのこともあるまい、新田を必ずや武蔵・上野の者どもが、討って参らすであろうと、気安く構えて頼みにして時を移しました。これが平家(北条)の運命が尽きる前兆となりました。
(続く)