同じき六月十八日、園城寺の衆徒蜂起して、公武に列訴に到る事あり。その謂れを何事ぞと尋ぬれば、南禅寺造営を為すこの頃建てられたる於新関、三井寺帰院の児を関務の禅僧これを殺害す。これ希代の珍事とて寺門の衆徒鬱憤を散ぜんと、大勢を卒し、不日に押し寄せて、当務の僧ども・人工・行者に至るまで、打ち殺すのみならず、なほも憤りを休めず、南禅寺を破却せしめ、達磨宗の蹤跡を削りて、令達を為し訴えを宿し、たちまちに嗷訴にぞ及びける。すなはち山門・南都へ牒送して、
四箇の大寺の安否を可定由、すでに往日の堅約なり。何の余儀にか及ぶべき。
一国に触れ訴へて、事令遅々、
神輿・神木・神坐の本尊、共に入洛あるべく罵りければ、すはや天下の
重事出で来ぬるはと、才ある人は密かにこれを危ぶみける。されども事大儀なれば、山門も南都も急には思し立たず。結句山門には、東西両塔に様々の異儀あつて、
三塔の事書き、
鳥使翼を
費やすばかりなり。しかれば左右なく事行ふべきとも思えず、公方の御沙汰は、
載許その期なかりしかば、園城寺は
款状徒らに投げ入れられて、怒りの中に日数をぞ送りける。
同じ六月十八日に、園城寺(現滋賀県大津市にある三井寺)の衆徒が蜂起して、公武に列訴([多くの者が連れ立って訴え出ること])にいたることがありました。その訳はというと、南禅寺造営(現京都市左京区南禅寺福地町にある寺院)の新関において、三井寺から帰院の稚児を関務の禅僧が殺害したからでした。希代の珍事だと寺門(三井寺)の衆徒が鬱憤を晴らそうと、大勢を率して、不日([多くの日数を経ないこと])に押し寄せて、当務の僧ども・人工([禅宗で、剃髪して力仕事などの下働きをする者])・行者([修行者])にいたるまで、打ち殺すのみならず、なおも怒りを休めず、南禅寺を破壊し、達磨宗([禅宗の異名])の蹤跡を削ったからでした、衆徒は令達([命令を伝えること])をなして訴えを起こし、たちまちに嗷訴([平安中期より室町時代にかけて、寺社の僧徒・神人が,朝廷・幕府に対し、仏力・神威をかざしてその訴えを主張した集団行動])に及びました。すなわち山門(延暦寺)・南都(奈良)へ牒送([牒状を送って知らせること])して、
四箇大寺([本朝四箇大寺]=[東大寺・延暦寺・興福寺・園城寺])を定められてより、すでに長年に及び揺ぎないものであることは、往日より変わることがありません。何の余儀がございましょう。
一国([国中])に触れ訴えましたが、まったく沙汰がなかったので、神輿・神木・神坐の本尊を、ともに入洛させると騒ぎになって、天下の重事([大事件])が起こるのではないかと、才ある人は密かにこれを危ぶみました。けれども大儀([重大な事柄])でしたので、山門(比叡山)も南都(奈良)も急には意見がまとまりませんでした。結局山門では、東西両塔に様々の異儀があり、三塔([東塔・西塔・
横川])の事書き([文書])、鳥使([急使])の翼が疲れるばかりでした。こうして左右なく事を起こすべきとも思えず、また公方の沙汰も、ありませんでしたので、園城寺は款状([訴訟の趣旨を記した嘆願書])を投げ入れたまま、怒りの中で日数を送りました。
(続く)