ここに美濃の国の住人、土岐伯耆の十郎頼貞・多治見四郎次郎国長と云ふ者あり。共に清和源氏の後胤として、武勇の聞こへありければ、資朝卿様々の縁を尋ねて、眤び近付かれ、朋友の交はりすでに浅からざりけれども、これほどの一大事を無左右知らせん事、いかんかあるべからんと思はれければ、なほもよくよくその心を窺ひ見ん為に、無礼講と云ふ事をぞ始められける。その人数には、尹の大納言師賢・四条の中納言隆資・洞院左衛門の督実世・蔵人右少弁俊基・伊達の三位房遊雅・聖護院庁の法眼玄基・足助の次郎重成・多治見四郎次郎国長らなり。
ここに美濃国の住人、土岐伯耆十郎頼貞(土岐頼貞)・多治見四郎次郎国長(多治見国長)という者がいました。ともに清和源氏の後胤([子孫])として、武勇の聞こえがありましたので、資朝卿(日野資朝)は様々の縁を頼って、近付いて親しく付き合うようになりました、朋友の交わりはすでに浅からぬものでしたが、これほどの一大事をむやみに知らせては、どうなることかと思い、なおもよくよくその心を窺い知るために、無礼講というものを始めました。集まる人たちは、尹大納言師賢(尹師賢)・四条中納言隆資(四条隆資)・洞院左衛門督実世(洞院実世)・蔵人右少弁俊基(日野俊基)・伊達三位房遊雅(伊達遊雅)・聖護院庁法眼玄基・足助次郎重成(足助重成)・多治見四郎次郎国長(多治見国長)たちでした。
(続く)