ここに鎌倉の軍に打ち負けて、方々へ落ちられたりける上杉民部の大夫・舎弟宮内の少輔は、相摸の国より起こり、桃井播磨の守直常は、箱根より打ち出で、高の駿河の守は安房・上総より鎌倉へ押し渡り、武蔵・相摸の勢を催さるるに、所存あつて国司の方へは付かざりつる江戸・葛西・三浦・鎌倉・坂東の八平氏・武蔵の七党、三万余騎にて馳せ来たる。また清の党の旗頭、芳賀兵衛入道禅可も、元来将軍方に心ざしありければ、紀清両党が国司に属して上洛しつる時は、虚病して国に留まりたりけるが、清の党千余騎を率して馳せ加はる。
ここに鎌倉の軍に打ち負けて、方々へ落ちた上杉民部大夫(上杉朝房)・弟の宮内少輔(上杉朝宗)が、相摸国より兵を起こし、桃井播磨守直常(桃井直常)が、箱根より打ち出で、高駿河守(高重茂)は安房・上総より鎌倉へ押し渡り、武蔵・相摸の勢を集めると、所存([考え])あって国司方(北畠顕家)へは付かなかった江戸・葛西・三浦・鎌倉・坂東の八平氏([平安時代中期に坂東に下向して武家 となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏])・武蔵七党([平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称])が、三万余騎で馳せ集まりました。また清党の旗頭([その集団を率いる者])、芳賀兵衛入道禅可(芳賀高名)も、もともと将軍方(足利尊氏)に心を寄せていたので、紀清両党([宇都宮氏の家中の精鋭として知られた武士団])が国司(顕家)に属して上洛した時は、病いと偽り国に留まっていましたが、清党千余騎を引き連れて馳せ加わりました。
(続く)