漢の兵勝つに乗つて今夜やがて項羽の陣へ寄せんとしけるに、韓信兵どもを集めて申しけるは、「我思ふ様あり。汝ら皆持つところの兵粮を捨てて、その袋に砂を入れて持つべし」とぞ下知しける。兵皆心得ぬ事かなと思ひながら、大将の命に随ひて、士卒皆持つところの粮を捨てて、その袋に砂を入れて、項羽が陣へぞ押し寄せたる。夜に入つて項羽が陣の様を見るに、四方皆沼を堺ひ沢を隔てて馬の足も立たず、渡るべき様なき所にぞ陣取つたりける。この時に韓信持ちたるところの砂嚢を沢に投げ入れ投げ入れ、これを堤に成してその上を渡るに、深泥更に平地の如し。項羽の兵二十万騎終日の軍には疲れぬ。ここまでは敵寄すべき道なしと油断して、帯紐解ひて寝たるところに、高祖の兵七千余騎鬨をどつと作りて押し寄せたれば、一戦にも及ばず、項羽の兵十万余騎、皆河水に溺れて討たれにけり。これを名付けて韓信が嚢砂背水の謀とは申すなり。今師泰・師冬・頼春が敵を大勢なりと聞きて、わざと水沢を後ろに成して、関の藤川に陣を取りけるも、専ら士卒心を一つにして、再び韓信が謀を示すものなるべし。
漢の兵勝つに乗って今夜やがて項羽(秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼした)の陣へ寄せようとするところな、韓信(中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の臣下)が兵どもを集めて申すには、「わしに考えがある。お前たちが持っている兵粮を捨てて、その袋に砂を入れて持て」と命じました。兵は皆どういうことかと思いながらも、大将の命に従い、士卒は皆持っていた粮を捨てて、その袋に砂を入れて、項羽の陣に押し寄せました。夜に入って項羽の陣を見れば、四方は皆沼で囲まれ沢を隔てて馬の足も立たず、渡るべき所もない場所に陣取っていました。この時韓信は持っていた砂を次々に沢に投げ入れると、ここを堤にしてその上を渡りましたが、深泥はたちまちにして平地になりました。項羽の兵二十万騎は終日の軍に疲れていました。まさかここまで敵が攻めて来るとは思いもしなかったので油断して、帯紐を解いて寝ているところに、高祖(劉邦。前漢初代皇帝)の兵七千余騎が鬨を一斉に作って押し寄せたので、一戦にも及ばず、項羽の兵十万余騎は、皆河に溺れて討たれました。これを名付けて韓信の嚢砂背水の謀(背水の陣)といいます。今の師泰(高師泰)・師冬(高師冬)・頼春(細川頼春)の敵を大勢と聞いて、わざと水沢を後ろにして、関の藤川(現岐阜県不破郡関ヶ原町にある不破関付近を流れる藤古川)に陣を取ったことは、ただ士卒の心を一つにして、再び韓信の謀を示すものでした。
(続く)