新田左中将義貞朝臣、去る二月の始めに越前の府中の合戦に打ち勝ち給ひし刻み、国中の敵の城七十余箇所を暫時に攻め落として、勢ひまた強大になりぬ。この時山門の大衆、皆旧好を以つて内々心を通はせしかば、先づかの比叡山に取り上りて、南方の官軍に力を合はせ、京都を攻められん事は無下に容易かるべかりしを、足利尾張の守高経、なほ越前の黒丸の城に落ち残りてをはしけるを、攻め落とさで上洛せん事は無念なるべしと、詮なき小事に目を懸けて、大儀を次に成されけるこそうたてけれ。
新田左中将義貞朝臣(新田義貞)は、去る(延元二年(1337))二月の始めに越前の府中の合戦に打ち勝った時、国中の敵(足利尊氏)の城七十余箇所をあっという間に攻め落として、勢いはまた強大になりました。この時山門(比叡山)の大衆([僧])は、皆旧好([昔からのよしみ])により内々心を通わせたので、まずは比叡山に上り、南方(南朝)の官軍と力を合わせ、京都を攻めれば戦に勝つことは容易いことでしたが、足利尾張守高経(足利高経)が、まだ越前の黒丸城(現福井県福井市黒丸城町)に落ち残っていたのを、攻め落とさずに上洛するのは無念だと、つまらない小事を気にかけて、大儀を次にしたのは愚かなことでした。
(続く)