東寺へは、赤松入道円心、三千余騎にて寄せ懸けたり。楼門近く成りければ、信濃の守範資、鐙踏ん張り左右を顧て、「誰かある、あの木戸、逆茂木、引き破つて捨てよ」と下知しければ、宇野・柏原・佐用・真島の逸り雄の若者ども三百余騎、馬を乗り捨てて走り寄り、城の構へを見渡せば、西は羅城門の礎より、東は八条河原辺まで、五六八九寸の琵琶の甲、安郡なんどを彫り貫いて、したたかに屏を塗り、前には乱杭・逆茂木を引つ懸けて、広さ三丈余りに堀を掘り、流水を堰き入れたり。飛び浸らんとすれば、水の深さのほどを不知。渡らんとすれば橋を引きたり。いかがせんと案じ煩ひたるところに、播磨の国の住人妻鹿の孫三郎長宗馬より飛んで下り、弓を差し下ろして、水の深さを探るに、末弭わづかに残りたり。さては我が丈は立たんずるものを、と思ひければ、五尺三寸の太刀を抜いて肩に掛け、貫き脱いで投げ捨て、かつはと飛び浸たりたれば、水は胸板の上へも不揚、跡に続ひたる武部の七郎これを見て、「堀は浅かりけるぞ」とて、丈五尺ばかりなる小男が、無是非飛び入りたれば、水は兜をぞ越えたりける。
東寺(現京都市南区にある教王護国寺)へは、赤松入道円心(赤松則村)が、三千余騎で押し寄せました。楼門([社寺の入口にある二階造の門])の近くになって、信濃守範資(赤松範資。赤松則村の嫡男)は、鐙踏ん張り左右を振り返って、「誰かおらぬか、あの木戸、逆茂木を、引き破って捨てよ」と命じると、宇野・柏原・佐用・真島の逸り雄([血気にはやる者])の若者ども三百余騎が、馬を乗り捨てて走り寄り、城の構えを見渡せば、西は羅城門([朱雀大路の南端に構えられた大門])の礎より、東は八条河原辺まで、五六八九寸の琵琶甲(現兵庫県加西市琵琶甲町?)、安郡(野洲郡?現滋賀県野洲市)などを彫り貫いて([石や木をくりぬいて穴をあける])、幾重にも屏を塗り、前には乱杭([地上や水底に数多く不規則に打ち込んだくい。昔、それに縄を張り巡らして、通行や敵の攻撃の妨げとした])・逆茂木([敵の侵入を防ぐために、先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べ、結び合わせた柵])を引き懸けて、幅三丈あまりの堀を掘り、流水を湛えていました。飛び浸ろうとしましたが、水の深さのほどを知りませんでした。渡ろうとすれども橋は引いてありました。どうすればよいおのかと考えあぐねているところに、播磨国の住人妻鹿孫三郎長宗(妻鹿長宗)が馬から飛んで下り、弓を差し下ろして、水の深さを探ると、末弭([弓の上端の弦輪をかける部分])がわずかに見えていました。ならば我が丈には及ぶまい、と思い、五尺三寸の太刀を抜いて肩に掛け、貫き([毛皮で作った乗馬用・狩猟用の浅沓])を脱いで投げ捨て、掘に飛び込むと、水は胸板([鎧の胴の最上部の、胸にあたる部分])の上も越えませんでした、後に続いた武部七郎はこれを見て、「堀は浅いぞ」と言って、丈五尺(約150cm)ばかりの小男が、前後をわきまえず飛び入ると、水は兜を越えました。
(続く)