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「太平記」主上・上皇御沈落事(その5)

南の方左近の将監しやうげん時益ときますは、行幸ぎやうがう御前おんさきを仕つて打ちけるが、馬に乍乗北の方越後ゑちごかみの中門のきはまで打ち寄せて、「主上しゆしやう早や寮のruby>御馬おんむまに被召て候ふに、などや長々しく打ち立たせ給はぬぞ」と云ひ捨てて打ち出でければ、仲時なかとき無力鎧の袖に取り着きたる北の方をさなき人を引き放して、縁より馬に打ち乗り、北の門を東へ打ち出で給へば、被捨置人々、泣き泣く左右へ別れて、東の門より迷ひ出で給ふ。行く行く泣き悲しむ声遥かに耳に留まつて、離れも遣らぬ悲しさに、落ち行くさきの路暮れて、馬に任せて歩ませ行く。これを限りの別れとは互ひに知らぬぞあはれなる。十四五町じふしごちやう打ち延びて跡をかへりみれば、早や両六波羅りやうろくはらたちに火懸かりて、一片の煙と焼き揚げたり。五月闇さつきやみの頃なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道くずめぢの辺に野伏満ち満ちて、十方より射ける矢に、左近の将監時益は、首の骨を被射て、馬よりさかさまに落ちぬ。糟谷七郎馬より下りて、その矢を抜けば、忽ちに息止まりにけり。




六波羅探題南方左近将監時益(北条時益)は、行幸の前駆をしておりましたが、馬に乗りながら北方越後守(北条仲時なかとき)の館の中門の際まで打ち寄せて、「主上(北朝初代、光厳くわうごん天皇)はすでに馬寮の御馬に召されておられます、何故長々しく留まっておられるや」と言い捨てて出て行ったので、仲時は力なく鎧の袖に取り付いた北の方幼い子を引き離すと、縁より馬に打ち乗り、北門を東へ打ち出ました、捨て置かれた人々は、泣き泣く左右へ別れて、東門より迷い出て行きました。泣き悲しむ声は遥かに仲時の耳に留まって、離れることができぬ悲しさに、落ち行く前の路はすでに暮れて、馬に任せて歩ませました。これを限りの別れといに知らないことが哀れでした。十四五町打ち延びて後ろを振り返ると、早くも両六波羅の館には火が懸かり、わずかの間に煙と立ち上りました。五月闇([さみだれの降る頃の夜が暗いこと])の頃でしたので、前後も見分かず暗い夜に、苦集滅道([四諦したい]=[苦とは人間の生が苦しみであること、集とは煩悩による行為が集まって苦を生みだすこと、滅とは煩悩を絶滅することで涅槃に達すること、道とはそのために八正道に励むべきであることをいう])の辺に野伏が満ち満ちて、十方より射る矢に、左近将監時益(北条時益)は、首の骨を射られて、馬からさかさまに落ちました。糟谷七郎(糟屋時広ときひろ)が馬より下りて、その矢を抜くと、たちまち息は止まりました。


続く


by santalab | 2015-12-25 07:15 | 太平記

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