南の方左近の将監時益は、行幸の御前を仕つて打ちけるが、馬に乍乗北の方越後の守の中門の際まで打ち寄せて、「主上早や寮のruby>御馬に被召て候ふに、などや長々しく打ち立たせ給はぬぞ」と云ひ捨てて打ち出でければ、仲時無力鎧の袖に取り着きたる北の方少き人を引き放して、縁より馬に打ち乗り、北の門を東へ打ち出で給へば、被捨置人々、泣き泣く左右へ別れて、東の門より迷ひ出で給ふ。行く行く泣き悲しむ声遥かに耳に留まつて、離れも遣らぬ悲しさに、落ち行く前の路暮れて、馬に任せて歩ませ行く。これを限りの別れとは互ひに知らぬぞ哀れなる。十四五町打ち延びて跡を顧れば、早や両六波羅の館に火懸かりて、一片の煙と焼き揚げたり。五月闇の頃なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道の辺に野伏満ち満ちて、十方より射ける矢に、左近の将監時益は、首の骨を被射て、馬よりさかさまに落ちぬ。糟谷七郎馬より下りて、その矢を抜けば、忽ちに息止まりにけり。
六波羅探題南方左近将監時益(北条時益)は、行幸の前駆をしておりましたが、馬に乗りながら北方越後守(北条仲時)の館の中門の際まで打ち寄せて、「主上(北朝初代、光厳天皇)はすでに馬寮の御馬に召されておられます、何故長々しく留まっておられるや」と言い捨てて出て行ったので、仲時は力なく鎧の袖に取り付いた北の方幼い子を引き離すと、縁より馬に打ち乗り、北門を東へ打ち出ました、捨て置かれた人々は、泣き泣く左右へ別れて、東門より迷い出て行きました。泣き悲しむ声は遥かに仲時の耳に留まって、離れることができぬ悲しさに、落ち行く前の路はすでに暮れて、馬に任せて歩ませました。これを限りの別れといに知らないことが哀れでした。十四五町打ち延びて後ろを振り返ると、早くも両六波羅の館には火が懸かり、わずかの間に煙と立ち上りました。五月闇([さみだれの降る頃の夜が暗いこと])の頃でしたので、前後も見分かず暗い夜に、苦集滅道([四諦]=[苦とは人間の生が苦しみであること、集とは煩悩による行為が集まって苦を生みだすこと、滅とは煩悩を絶滅することで涅槃に達すること、道とはそのために八正道に励むべきであることをいう])の辺に野伏が満ち満ちて、十方より射る矢に、左近将監時益(北条時益)は、首の骨を射られて、馬からさかさまに落ちました。糟谷七郎(糟屋時広)が馬より下りて、その矢を抜くと、たちまち息は止まりました。
(続く)