かかるところに、七月十二日山名伊豆の守時氏・嫡子右衛門の佐師義・次男中務の大輔、出雲・伯耆・因播、三箇国の勢三千余騎を率して美作へ発向す。当国の守護赤松筑前入道世貞、播州に在つていまだ戦はざる前に、広戸掃部の助が、名木杣二箇所の城、飯田の一族が籠もつたる篠向の城、菅家の一族の大見丈の城、有元民部の大夫入道が菩提寺の城、小原孫次郎入道が小原の城、大野の一族が籠もりたる大野の城、六箇所の城は、一矢をも射ず降参す。林野・妙見二つの城は、二十日余り堪たりけるが、山名にとかくすかされて、遂にはこれも敵になる。今は倉懸の城一つ残つて、佐用美濃の守貞久・有元和泉の守佐久、わづかに三百余騎にて立て籠もりたりけるを、山名伊豆の守時氏・子息中務の少輔三千余騎にて押し寄せ、城の四方の山々峯々二十三箇所に陣を取つて、鹿垣を二重三重に結ひ廻し、逆茂木繁く引き懸けて、矢懸かり近くぞ攻めたりける。
そうこうするところに、七月十二日山名伊豆守時氏(山名時氏)・嫡子右衛門佐師義(山名師義)・次男中務大輔(山名氏冬。山名時氏の三男)は、出雲・伯耆・因播、三箇国の勢三千余騎を率して美作へ発向しました。当国の守護赤松筑前入道世貞(赤松貞範)は、播州にあって戦う前に、広戸掃部助の、名木(現岡山県勝田郡奈義町)杣(名木仙)二箇所の城、飯田一族が籠もっていた篠向城(現岡山県真庭市)、菅家一族(有元氏)の大見丈城(大別当城。現岡山県勝田郡奈義町)、有元民部大夫(有元佐顕)の菩提寺城(現岡山県勝田郡奈義町)、小原孫次郎入道(小原信明)の小原城(現岡山県美作市)、大野一族が籠もっていた大野城、六箇所の城は、一矢も射ずに降参しました。林野(現岡山県美作市)・妙見(現岡山県美作市?)の二つの城は、二十日余り堪えましたが、山名(時氏)に言いくるめられて、遂にはこれも敵になりました。今は倉懸城(現岡山県赤磐市)一つだけが残って、佐用美濃守貞久(佐用貞久)・有元和泉守佐久(有元佐久)は、わずかに三百余騎で立て籠もりましたが、山名伊豆守時氏・子息中務少輔(山名氏冬?官位は中務大輔)が三千余騎で押し寄せ、城の四方の山々峯々二十三箇所に陣を取って、鹿垣([害獣の進入を防ぐ目的で山と農地との間に石や土などで築いた垣])を二重三重に結い廻し、逆茂木([敵の侵入を防ぐため、いばらなどのとげのある木の枝を並べて垣にしたもの])を繁く引き懸けて、矢懸かり([射る矢の届く所])近く攻めました。
(続く)