さるほどに倉懸の城には人多くして、兵粮少なかりければ、戦ふ度に軍利ありといへども、後攻の頼みもなく、食尽き矢種尽きければ、力なく十一月四日遂に城を落ちにけり。これより山名山陰道四箇国を合はせて勢いよいよ近国に振るふのみにあらず、諸国の聞こへをびたたしかりければ、世の中いかがあらんと危ふく思はぬ人もなかりけり。
やがて倉懸城(現岡山県赤磐市)は人多くして、兵粮は少なかったので、戦う度に軍に勝ちましたが、後詰め([先陣の後方に待機している軍勢])の頼みもなく、食尽き矢種が尽きて、仕方なく十一月四日遂に城を落ちました。これより山名(山名時氏)は山陰道四箇国を合わせて勢力をますます近国に振るうのみならず、諸国の聞こえも莫大なものでしたので、世の中はどうなることかと思わぬ人はいませんでした。
(続く)