さるほどに義貞の兵三方より寄すると聞こへければ、鎌倉にも相摸左馬の助高成・城の式部の大輔景氏・丹波の左近の太夫将監時守を大将として、三手に分けてぞ防ぎける。その一方には金沢越後の左近の太夫将監を差し副へて、安房・上総・下野の勢三万余騎にて化粧坂を固めたり。一方には大仏陸奥の守貞直を大将として、甲斐・信濃・伊豆・駿河の勢を相随へて、五万余騎、極楽寺の切り通しを固めたり。一方には赤橋の前の相摸の守盛時を大将として、武蔵・相摸・出羽・奥州の勢六万余騎にて、州崎の敵に被向。この外末々の平氏八十余人、国々の兵十万騎をば、弱からん方へ可向とて、鎌倉中に被残たり。さるほどに同日の巳の刻より合戦始まつて、終日終夜攻め戦ふ。寄せ手は大勢にて、新手を入れ替へ入れ替へ攻め入りければ、鎌倉方には防ぎ場殺所なりければ、打ち出で打ち出で相支へて戦ひける。されば三方に作る鬨の声両陣に呼ぶ矢叫びは、天を響かし地を動かす。魚鱗に懸かり鶴翼に開いて、前後に当たり左右を支へ、義を重んじ命を軽んじて、安否を一時に定め、剛臆を累代に可残合戦なれば、子被討ども不扶、親は乗り越えて前なる敵に懸かり、主被射落ども不引起、郎等はその馬に乗つて懸け出で、あるひは引つ組んで勝負をするもあり、あるひは打ち違へて共に死するもありけり。その猛卒の機を見るに、万人死して一人残り、百陣破れて一陣に成るとも、いつ可終軍とは見へざりけり。
やがて義貞(新田義貞)の兵が三方より寄せると聞こえたので、鎌倉でも相摸左馬助高成(北条高成)・城式部大輔景氏(城景氏)・丹波左近太夫将監時守(北条時守)を大将として、三手に分けてこれを防がせました。その一方には金沢越後左近太夫将監を差し添えて、安房・上総・下野の勢三万余騎で化粧坂を固めました。一方には大仏陸奥守貞直(大仏貞直)を大将として、甲斐・信濃・伊豆・駿河の勢を相従えて、五万余騎で、極楽寺の切り通しを固めさせました。一方には赤橋前相摸守盛時(北条守時。鎌倉幕府第十六代執権)を大将として、武蔵・相摸・出羽・奥州の勢六万余騎で、州崎の敵に向かわせました。この外末々の平氏八十余人、国々の兵十万騎を、守りの弱い方へ向かわせようと、鎌倉中に残しました。やがて同じ日の巳の刻([午前十時頃)]に合戦が始まって、終日終夜攻め戦いました。寄せ手は大勢で、新手を入れ替え入れ替え攻めたので、鎌倉方には防ぎ場殺所([難所])もなく、打ち出で打ち出でこれを防いで戦いました。このようにして三方に作る鬨の声両陣に呼ぶ矢叫びは、天を響かし地を動かすほどでした。魚鱗に懸かり鶴翼に開いて、前後に当たり左右を支え、義を重んじ命を軽んじて、安否を一時に定め、剛臆を累代に残すべき合戦でしたので、子が討れてもこれを助けず、親は乗り越えて前の敵に懸かり、主が射落されようが引き起こすことなく、郎等([家来])は主の馬に乗って駆けけ出し、ある者は引っ組んで勝負をするもあり、ある者は打ち違えてともに死ぬ者もありました。その猛卒([勇猛な兵卒])の気迫を思えば、万人死して一人残り、百陣破れて一陣になるとも、いつ終わるべき軍とも見えませんでした。
(続く)