御門守護の武士ども御車を押さへて、「誰にて御渡り候ふぞ」と問ひ申しければ、藤房・季房二人御車に随つて供奉したりけるが、「これは中宮の夜に紛れて北山殿へ行啓ならせ給ふぞ」とのたまひたりければ、「さては子細候はじ」とて御車をぞ通しける。兼ねて用意やしたりけん、源中納言具行・按察大納言公敏・六条の少将忠顕、三条河原にて追つ付き奉る。ここより御車をば被止、怪しげなる張輿に召し替へさせ進らせたれども、俄かの事にて駕輿丁もなかりければ、大膳の大夫重康・楽人豊原の兼秋・随身秦の久武なんどぞ御輿をば舁き奉りける。供奉の諸卿皆衣冠を解いで折烏帽子に直垂を着し、七大寺詣でする京家の青侍なんどの、女性を具足したる体に見せて、御輿の前後にぞ供奉したりける。
御門守護の武士どもが車を止めて、「誰のお渡りぞ」と訊ねると、藤房(万里小路藤房)・季房(万里小路季房)二人は車に付いて供奉していましたが、「中宮(西園寺禧子)が夜に紛れて北山殿(西園寺公経が建てた別荘)へ行啓になられるのだ」と申せば、「ならば構わぬ」と申し車を通しました。かねて用意していたのか、源中納言具行(北畠具行)・按察大納言公敏(洞院公敏)・六条少将忠顕(千種忠顕)が、三条河原で追い付きました。ここより車を止めて、怪しげな張輿([屋形と左右の両側を畳表で張り、押縁を打った略式の輿])に替えられて、急ぎのことでしたので駕輿丁([貴人の駕籠や輿を担ぐ人])もいませんでしたので、大膳大夫重康・楽人豊原兼秋・随身([貴族の外出時に護衛として随従した近衛府の官人])秦久武らが輿を舁きました。供奉の諸卿は皆衣冠を解いで折烏帽子に直垂を着し(武士の装い)、七大寺詣で([南都七大寺=東大寺・興福寺・元興寺・西大寺・薬師寺・大安寺・法隆寺を巡拝すること])のため京家([公家])の青侍([公卿の家に仕える六位の侍])どもが、女性を具足した風に見せて、輿の前後に付きました。
(続く)