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「太平記」左馬頭義詮上洛事

さるほどに三条殿さんでうどのは、師直もろなほ師泰もろやすいきどほりなほ深きに依つて、天下の政務の事口入に及ばず。大樹は元来ぐわんらい政務を謙譲けんじやうし給へば、自ら関東くわんとう左馬のかみ義詮よしのりを急ぎ上洛しやうらくあらせて、直義ただよしに相替へず政道をまうし付け、師直諸事を申すべき沙汰定まりにけり。この左馬の頭と申すは千寿王丸せんじゆわうまると申して久しく関東に据へ置かれたりしが、今は器に当たるべしとて、権柄けんぺいの為に上洛あるとぞ聞こへし。同じき十月四日左馬の頭鎌倉を立つて、同じき二十二日入洛し給けり。上洛の体由々しき見物なりとて、粟田口あはたぐち四宮河原しのみやがはら辺まで桟敷を打つて車を立て、貴賎巷をぞ争ひける。師直以下の在京の大名、ことごとく勢多まで参向す。東国の大名も川越かはこえ高坂かうさかを始めとして大略送りに上洛す。馬具足奇麗なりしかばまことに耳目じぼくを驚かす。その美を尽くし善を尽くすもことはりか、将軍の長男にて直義の政務に替はり天下の権を執らん為に上洛ある事なれば、一際めづらかなり。今夜将軍の亭に着き給へば、仙洞より勧修寺くわんしゆじ大納言経顕つねあききやうを勅使にて、典厩てんきう上洛の事を賀しおほせらる。同じき二十六にじふろく三条さんでう坊門ばうもん高倉、直義朝臣の宿所へ移住され、やがて政務執行しつかうの沙汰始めあり。めでたかりし事どもなり。




やがて三条殿(足利直義ただよし。足利尊氏の同母弟)は、師直(高師直)・師泰(高師泰。高師直の兄弟)の怒りは深いものでしたので、天下の政務に口を挟まなくなりました。大樹は元来政務を謙譲([控え目である様])するものなれば、自ら関東左馬頭義詮(足利義詮。後に室町幕府第二代将軍。足利尊氏の嫡男)を急ぎ上洛させて、直義(足利直義。尊氏の弟)には変わらず政道を申し付け、師直は諸事を執ることになりました。この左馬頭と申すのは千寿王丸と申して長く関東に留め置かれていましたが、今はその器に当たるべきと、権柄のために上洛されたということです。同じ貞和ぢやうわ五年(1349)十月四日に左馬頭は鎌倉を立って、同じ十月二十二日に入洛しました。上洛の様はすばらしい見物だと、粟田口(現京都市東山区。東海道の京への入り口)・四宮河原(現京都市山科区。四宮川と東海道が交差するあたり)あたりまで桟敷を打って車を立て、貴賎の者が巷を争いました。師直以下の在京の大名は、残らず勢多(瀬田。現滋賀県大津市)まで迎えに参りました。東国の大名も川越・高坂をはじめとしてほとんど見送りに上洛しました。馬具足は見事でまことに耳目を驚かすばかりでした。その美を尽くし善を尽くすのも理でした、将軍(室町幕府初代将軍、足利尊氏)の長男で直義の政務に替わり天下の執権のための上洛でしたので、一際素晴らしいものでしたこの夜将軍が館に着くと、仙洞より勧修寺大納言経顕卿(勧修寺経顕)を勅使として、典厩([左馬頭の唐名])の上洛を祝い申されました。同じ十月二十六日に三条坊門高倉、直義朝臣の宿所へ移住し、やがて政務の執行をはじめました。おめでたいことでした。


続く


by santalab | 2016-01-24 11:44 | 太平記

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