さるほどに直義は世の交はりを止め、細川兵部の大輔顕氏の錦小路堀川の宿所へ被移にけり。なほも師直・師泰は、かくて始終御憤りを被止まじければ、身の為悪しかるべしとて、密かに可奉失由内々議すと聞こへければ、その疑ひを散ぜん為に、先づ世に望みなく御身を捨て果てられたる心中を知らせんとにや、貞和五年十二月八日、御歳四十二にして御髪を下ろし給ひける。いまだ強仕の齢幾程も不過に、剃髪染衣の姿に帰し給ひし事、盛者必衰の理と乍云、うたてかりける事どもなり。斯かりしかば天下の事綺ひしほどこそあれ、今は大廈高墻の内に身を置き、軽羅褥茵の上に非可楽とて、錦小路堀川に幽閉閑疎の御住居、垣に苔生し軒に松旧りたるが、茅茨煙に籠もつて夜の月朦朧たり。荻花風にそよいで暮れの声蕭疎たり。
やがて直義(足利直義)は世の交わりをしなくなり、細川兵部大輔顕氏(細川顕氏)の錦小路堀川の宿所へ移りました。なおも師直(高師直)・師泰(高師泰)は、怒りを鎮めることなく、身にとってよろしくないと、密かに失おうと話し合っていると聞こえたので、その疑いを晴らすために、まず世に望みはなく身を捨てた心中を知らせるために、貞和五年(1349)十二月八日に、四十二歳で髪を下ろしました。まだ強仕([四十歳])の齢をいくつも過ぎないうちに、髪を剃り墨染めの衣姿に変えたのは、盛者必衰の道理とはいえ、残念なことでした。こうして天下の政に関わりましたが、今は大廈高墻([りっぱな建物と高い壁])の内に身を置き、軽羅褥茵([紗・絽などの薄い絹織物の敷物])を楽しむべからずと、錦小路堀川に幽閉閑疎([世を遁れてある場所に閉じ籠もること])の暮らしぶりでした、垣に苔生し軒には松がかかり、茅茨([チガヤとイバラ。また、それでふいた粗末な屋根や粗末な家])には煙が籠もって夜の月も朦朧としていました。荻花([オギの花])が風にそよいで暮れはひっそりとしていました([蕭疎]=[まばらでもの寂しい様])。
(続く)