軍畢つて四五箇月の後までも、戦場二三里が間は草腥うして血原野に淋き、地嵬くして屍路径に横たはれり。これのみならず、吉江中務が武蔵の国の守護代にて勢を集めて居たりけるも、那和の合戦と同じき日に、津山弾正左衛門並びに野与の一党に被寄、忽ちに討たれければ、今は武蔵・上野両国の間に敵と云ふ者一人もなく成りて、宇都宮に付く勢三万余騎に成りにけり。宇都宮すでに所々の合戦に打ち勝つて、後攻めに廻る由、薩埵山の寄せ手の方へ聞こへければ、諸軍勢皆一同に、「あはれ後攻めの近付かぬ前に薩埵山を被責落候べし」と云ひけれども、傾く運にや引かれけん、石堂・上杉、かつて不許容ければ、余りに身を揉うで、児玉党三千余騎、極めて嶮しき桜野より、薩埵山へぞ寄せたりける。
軍が終わって四五箇月の後までも、戦場二三里の間は草は生臭く血は原野に注ぎ、地は山のようになって屍が路径に横たわっていました。これのみならず、吉江中務は武蔵国の守護代で勢を集めていましたが、那波(現群馬県伊勢崎市)の合戦と同じ日に、津山弾正左衛門ならびに野与の一党に寄せて、たちまちに討たれたので、今は武蔵・上野両国の間に敵という者は一人もいなくなって、宇都宮(宇都宮公綱)に付く勢は三万余騎になりました。宇都宮(公綱)は所々の合戦に打ち勝って、後詰め([敵の背後に回って攻める軍勢])に廻ると、薩埵山(現静岡県静岡市清水区にある薩埵峠)の寄せ手の方へ聞こえたので、諸軍勢は皆一同に、「なんと後詰めが近付かぬ前に薩埵山を攻め落としましょう」と言いましたが、傾く運に引かれたか、石堂(石塔義房)・上杉(上杉憲顕)は、まったく聞き入れなかったので、あまりに気は逸り、児玉党([武蔵国で割拠した武士団 の一])三千余騎は、極めて険しい桜野(現静岡市清水区)より、薩埵山に寄せました。
(続く)