細川讃岐の守は討たれぬ。陸奥の守はいづちとも知らず落ち行きぬ。今は重ねて戦ふべき兵なかりければ、宰相の中将義詮朝臣、わづかに百四五十騎にて、近江を指して落ち給ふ。下賀・高山の源氏ども、予て合図を定めて、勢多の橋をば焼き落としぬ。舟はこなたに一艘もなし。山門へも、大慈院の法印を天王寺より遣はされて、山徒皆君の御方になりぬと聞こへつれば、落ち行くところを幸いと、勢多へも定めて懸かるらん。ただ都にて討ち死にすべかりつるものを、きたなくここまで落ちて、屍を湖水の底に沈め、名を外都の土に埋まん事、心憂かるべき恥辱かなと後悔せぬ人もなかりけり。敵の旗の見へば腹を切らんとて、義詮朝臣を始めとして、鎧をば皆脱ぎ置きて、腰の刀ばかりにて、白砂の上に並居給ふ。
細川讃岐守(細川頼春)は討たれました。陸奥守(武田信武)はどことも知れず落ちて行きました。今は再度戦う兵もなく、宰相中将義詮朝臣(足利義詮。足利尊氏の嫡男で室町幕府第二代将軍)は、わずか百四五十騎で、近江(現滋賀県)を指して落ちて行きました。下賀(下加毛?なら現岐阜県安八郡)・高山(現岐阜県高山市)の源氏たちは、かねてより合図を決めていたので、勢田(現滋賀県大津市瀬田)の橋を焼き落としていました。舟はこちら側には一艘もありませんでした。山門(延暦寺)へも、大慈院(かつて現京都市左京区鹿ヶ谷から滋賀県大津市の園城寺にかけてあった山岳寺院、如意寺)の法印を天王寺(現大阪市四天王寺区にある寺)より遣わして、山徒([比叡山延暦寺の衆徒=僧])は皆君(崇光天皇。北朝方)の味方になったと聞こえたので、落ち行くところを好機と、勢多(瀬田)へも必ず兵を差し向けているだろう。都で討ち死にすべきものを、卑しくもここまで逃げて、屍を湖水の底に沈め、名を外都([都以外の土地])に土に埋めることは、これ以上ない恥辱だと後悔しない者はいませんでした。敵の旗が見えれば腹を切ろうと、義詮朝臣(足利義詮)をはじめとして、鎧を皆脱ぎ捨てて、腰の刀だけを帯して、白砂の上に列をなしました。
(続く)