天に耳なしと言へどもこれを聞くに人を以つてする事なれば、互ひに隠密しけれども、兄は弟に語り子は親に知らせける間、この事なきほど鎌倉の管領足利左馬の頭基氏朝臣・畠山入道道誓に聞こへてげり。畠山大夫入道これを聞きしより敢へて寝食を安くせず、在所を尋ね聞いて大勢を差し遣はせば、国内通計して行く方を知らず。また五百騎三百騎の勢を以つて、道に待ちて夜討ちに寄せて討たんとすれば、義興さらに事ともせず、蹴散らしては道を通り打ち破つては囲みを出でて、千変万化すべて人の態にあらずと申しける間、今はすべき様なしとて、手に余りてぞ思へける。さてもこの事いかがすべきと、畠山入道道誓昼夜案じ居たりけるが、ある夜密かに竹沢右京の亮を近付けて、「御辺は先年武蔵野の合戦の時、かの義興の手に属して忠ありしかば、義興も定めてその旧好を忘れじとぞ思はるらん。さればこの人を謀つて討たんずる事は、御辺に過ぎたる人あるべき。いかなる謀をも廻らして、義興を討つて左馬の頭殿の見参に入れ給へ。恩賞は宜依請に」とぞ語られける。
天に耳なしと言いますがこれを聞くのは人伝てによるもの、互いに隠密にとすれども、兄は弟に語り子は親に知らせたので、この事はあっという間に鎌倉管領足利左馬頭基氏朝臣(足利基氏。足利尊氏の四男)・畠山入道道誓(畠山国清)の知るところとなりました。畠山大夫入道(道誓)はこれを聞いて寝食を安くすることなく、在所を尋ね聞いて大勢を差し遣わしましたが、国内に通計([知れ渡ること。広く知られること])して行方は知れませんでした。また五百騎三百騎の勢をもって、道に待ち懸けて夜討ちに寄せて討とうとしましたが、義興(新田義興。新田義貞の次男)はまったく事ともせず、蹴散らしては道を通り打ち破っては囲みを出て、千変万化はとても人のなす態ではないと申したので、今はどうすることもできないと、手を余していました。さても義興をどうすべきと、畠山入道道誓は昼夜策を考えていましたが、ある夜密かに竹沢右京亮を近付けて、「お主は先年武蔵野の合戦の時、義興の手に属して忠があれば、義興もきっと旧好を忘れてはおらぬと思うであろう。なれば義興を謀り討つのに、お主に勝る者はおらぬ。どんな手を使ってもよい、義興を討って左馬頭殿(足利基氏)の見参に入れられよ。恩賞を望むまま取らせよう」と申しました。
(続く)