この時の新院光明院殿も、山門の貫主梶井の宮も、ともに皆禅僧に成らせ給ひて、伏見殿に御座ありければ、急ぎかの遷化の山蔭へ御下りあつて御荼毘の事ども、取り営ませ給ひて、後ろの山に葬し奉る。哀れ仙院芝山の晏駕ならましかば、百官泪を滴でて、葬車の御迹に従ひ、一人悲しみを呑んで虞附の御祭をこそ営ませ給ふべきに、かかるる御事とだに知る人もなき山中の御葬礼なれば、ただ徒らに鳥鳴きて挽歌の響きを添そへ、松咽んで哀慟の声を助くるばかりなり。夢なるかな、往昔の七夕には、長生殿にして二星一夜の契りを惜しみて、六宮の美人両階の伶倫台下に曲を奏して、乞巧奠をこそ備へさせられしに、悲しいかな、当年の今日は、幽邃の地にして三界八苦の別れに逢うて、万乗の先主・一山の貫頂、山中に棺を荷ふて御葬送を営ませ給ふ。ただ千秋亭の月有待の雲に隠れ、万年樹の花無常の風に随ふが如し。
この時の新院(北朝第三代崇光天皇)光明院殿(北朝第二代天皇)も、山門の貫主(天台座主)梶井の宮(承胤法親王。第九十三代後伏見天皇の第七皇子で北朝初代光厳天皇の弟、光明天皇の兄)も、ともに皆禅僧になられて、伏見殿(現京都市伏見区にあった伏見山荘)におられたので、急ぎ光厳院(北朝初代天皇)が遷化([高僧や隠者などが死ぬこと])された山蔭(現京都市右京区にある常照皇寺)へ下られて荼毘を、取り営まれ、後ろの山に埋葬しました。仙院芝山の晏駕([ 天皇・上皇がなくなること])でしたので、百官は涙を流し、葬車の後に従いました、一人([最上位の人。太政大臣・左大臣])は悲しみに堪えて虞附の祭(法会?)を営むべきものでしたが、このことを知る人もない山中の葬礼でしたので、ただ鳥は鳴いて挽歌([人の死を悼んで作る詩歌])を添え、松は咽んで悲しい音を立てるばかりでした。夢のように思えました、かつて七夕には、長生殿([唐の太宗が驪山に建てた離宮])に二星の一夜の契りを惜しんで、六宮([皇后と五人の夫人が住む六つの宮殿])の美人が両階に並び伶倫([伶人]=[音楽を奏する人])が台下(楼下)で曲を奏して、乞巧奠([陰暦七月七日の行事])を催したものでしたが、悲しいことですが、当年の今日(七月七日)は、幽邃([色などが奥深く静かなこと])の地で三界八苦([愛別離苦・怨憎会苦])の別れに遭い、万乗の先主([先代の君主]。崇光院・光明院)・一山の貫頂(承胤法親王)が、山中に棺を担がれて葬送を営なわれました。ただ千秋亭の月が有待([ 有限ではかない人間という存在])の雲に隠れ、万年樹の花が無常の風に散るようでした。
(続く)