かくの如く近年は、敵になりたりつる人々は皆降参して、貞治改元の後より洛中西国静かなりといへども、東国にまた不慮の同士軍出で来て里民樵蘇を楽しまず。その事の起こりを尋ぬれば、この三四年が前に、将軍兄弟の御中悪しくなり給ひて、合戦に及びし刻み、上杉民部の大輔、故高倉禅門の方にて、始めは上野の国板鼻の合戦に宇都宮に打ち負けて、後には薩埵山の軍に御方の負けをしたりしが、とかくして信濃の国へ逃げ下り、宮方になりてなほこの所存を遂げばやと、時を待つてぞ居たりける。上杉かかる不義を致しけれども、鎌倉左馬の頭基氏、幼少より上杉に抱き育てられたりし旧好捨て難く思はれければ、別儀を以つて先づ越後の国守護職を与へて上杉をぞ呼び出だされける。この時芳賀兵衛入道禅可は、越後の国の守護にてありけるが、「降参不忠の上杉に思し替はり奉りて、忠賞恩補の国を召し放されべき様やある」とて、上杉と芳賀と越後の国にて合戦に及ぶ事数月なり。禅可遂に打ち負けしかば当国を上杉に奪はれるのみならず、一族若党その数を知らず落ち様に皆討たれにけり。禅可これを怒つて、「哀れ不思議もあつて世の中乱れよかし。上杉と一合戦してこの恨みを散ぜん」と憤りけり。
このように近年では、(室町幕府の)敵になった人々は皆降参して、貞治に改元([年号を改めること])の後は洛中西国は静かでしたが、東国にまた思いがけない同士軍が起こって、里民樵蘇([木こり])の心は安らかではありませんでした。事の起こりは、この三四年前に、将軍兄弟(足利尊氏と足利直義)の仲が悪くなって、合戦に及んだ時、上杉民部大輔(上杉憲顕)は、故高倉禅門(足利直義)の方に付いて、はじめ上野国板鼻(現群馬県安中市)の合戦で宇都宮(宇都宮氏綱)に打ち負けて、後には薩埵山の軍(薩埵峠の戦い(1351)。薩埵峠=静岡県静岡市清水区において、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢との間で行われた合戦)では味方が負けましたが、なんとか信濃国へ逃げ下り、宮方なったからには思いを遂げようと、その時を待っていました。上杉(憲顕)はこのような不義の者でしたが、鎌倉左馬頭基氏(足利基氏。足利尊氏の四男)は、幼少より上杉に抱き育てられた旧好を捨て難く思い、別儀をもってまず越後国の守護職を与えて上杉を呼び出しました。この時芳賀兵衛入道禅可(芳賀高名)は、越後国の守護でしたが、「敵に降りて不忠を働いた上杉(憲顕)のために、どうして忠賞恩補([恩賞として職に任ぜられること])の国を召し取られなくてはならぬのだ」と、上杉(憲顕)と芳賀(高名)は越後国で合戦し数ヶ月に及びました。禅可は遂に打ち負けて当国を上杉に奪われるのみならず、一族若党がその数を知らず落ち様に皆討たれました。禅可はこれに怒って、「不思議なことが起こるから世の中が乱れるのだ。上杉と一合戦してこの恨みを晴らすぞ」と腹を立てました。
(続く)