さて芳賀八郎は生け捕られたりけれども、幼稚の上垂れ髪なりければ、軍散じて後に、人を付けて帰されけるとかや。優にやさしとぞ申しける。去るほどに芳賀が八百余騎の兵、昨日は二日路を一夜に打ちしかば馬皆疲れぬ。今日はまた入れ替はる勢もなくて終日戦ひ暮らしければ、兵息を継ぎ敢へず。所存今はこれまでとや思ひけん、日すでに夕陽になりければ、討ち残されたる兵わづかに三百余騎を助けて、宇都宮へぞ帰りける。これを見て今まで戦を外に見て、勝方に付かんと伺ひつる白旗一揆、弊えに乗つて疲れを攻めて、いづくまでも追つ詰めて打ち止めんと、高名顔に追うたりける。これのみならず芳賀が勢打ち負けて引くと聞こへしかば、後れ馳せに御陣へ参りける兵ども、橋を引き、路を塞いで落とさじとしけるほどに、道にても百余騎討たれけり。辛き命を助かりて、故郷に帰りける者も、大略皆髪を切り遁世して、なきが如くになりにけり。軍散じければ、やがて宇都宮を退治せらるべしとて、左馬の頭八十万騎の勢にて先づ小山が館へ打ち越え給ふ。懸かるところに、宇都宮急ぎ参じて申しけるは、「禅可がこの間の振る舞ひ、まつたく我同意したる事候はず。主従向背の自科遁れ難かるに依つて、その身すでに逐電仕りぬる上は、御勢を向かはれるまでも候ふまじ」と申しければ、左馬の頭も深き慮りやをはしけん、翌日やがて鎌倉へ打ち帰り給ひにけり。されば「君無諌臣則君失其国矣、父無諌子則父亡其家矣」と言へり。禅可たとひ老い僻みてかかる悪行を企つとも、子どももし義を知つて制し止むる事あらば、豈若干の一族どもを討たせて、諸人に嘲哢されんや。無思慮禅可が合戦故に、鎌倉殿の威勢いよいよ重くなりしかば、大名一揆の嗷儀ども、これよりちと止みにけり。
芳賀八郎は生け捕られましたが、幼稚の上に垂れ髪([打ち垂れ髪]=[小児の普通の髪形])でしたので、軍が終わった後、人を付けて帰されたそうです。情けがあることよと人は申しました。やがて芳賀(芳賀高貞)の八百余騎の兵は、昨日は二日路を一夜で駆けて馬は皆疲れていました。今日はまた入れ替わる勢もなく一日戦ったので、兵は息を継ぐ隙もありませんでした。今はこれまでと思ったのか、日もすでに夕陽になったので、討ち残された兵わずかに三百余騎を連れて、宇都宮に帰って行きました。これを見て今まで戦を外に見て、勝つ方に付こうと窺っていた白旗一揆([武蔵国と上野国の国人一揆=武士集団])は、疲れた兵どもを攻めて、どこまでも追い詰めて討とうと、高名顔で追い駆けました。こればかりでなく芳賀の勢が打ち負けて引くと聞こえたので、後れて陣に参るところの兵どもは、橋を引き、路を塞いで落とすまいとしたので、道中でも百余騎が討たれました。やっとのことで命を助かり、故郷に帰った者も、ほとんど皆髪を切り遁世して、いないが如くになりました。軍が終わると、たちまち宇都宮(宇都宮氏綱)を退治すべしと、左馬頭(足利基氏。足利尊氏の四男)は八十万騎の勢でまず、小山館(現栃木県小山市)を打ち越えました(芳賀高名は宇都宮氏の家臣でした)。そうこうするところに、宇都宮(氏綱)が急ぎ参じて申すには、「禅可(芳賀高名)のこの度の振る舞いですが、まったくもって同意したことはございません。主従に背く自科([自分の犯した咎])は遁れ難く、すでに逐電([すばやく逃げて行方をくらますこと])した以上、勢を向かわれるまでもございません」と申したので、左馬頭(基氏)も深い情けがあったか、翌日やがて鎌倉に帰りました。なれば「君を諫める臣なくばすなわち君は国を失い、父を諫める子なくばすなわち父が家を亡ぼす」と言います。禅可(高名)がたとえ老いの僻みでこのような悪行を企てたとしても、子どもが義を知ってこれを制し止めることがあったなら、どうして多少の一族どもを討たせて、諸人に嘲哢されることがあったでしょう。思慮なく禅可が合戦を致したために、鎌倉殿(基氏)の威勢はますます重くなって、大名一揆の嗷儀([人数が、勢いを頼みにして無理を主張すること])は、これよりしばらくありませんでした。