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「太平記」新田左兵衛佐義興自害事(その12)

その後水練を入れて、兵衛ひやうゑすけ殿ならびに自害討ち死にの首十三求め出だし、酒にひたして、江戸遠江とほたふみかみ・同じく下野しもつけかみ・竹沢右京うきやうすけ五百余騎にて、左馬のかみ殿のおはします武蔵の入間いるま河の陣へ馳せ参る。畠山入道なのめならず悦びて、小俣をまた少輔せう次郎・松田・河村を呼び出だしてこれを見せられるに、「子細なく兵衛の佐殿にておはし候ひけり」とて、この三四年が先に、数日すじつ相馴あひなれ奉りし事ども申し出でて皆涙をぞ流しける。見る人悦びの中にあはれ添うて、ともに袖をぞ濡らしける。この義興と申すは、故新田左中将さちゆうじやう義貞よしさだの思ひ者の腹に出で来たりしかば、ただ越後ゑちごの守義顕よしあきが討たれし後も、親父しんぶなおこれを嫡子には立てず、三男武蔵の守義宗よしむねを六歳の時より昇殿しやうでんせさせて時めきしかば、義興はあるにもあらず、孤子みなしごにて上野かうづけの国に居たりしを、奥州あうしうの国司顕家あきいへ卿、陸奥の国より鎌倉へ攻め上る時、義貞に心ざしある武蔵・上野のつはものども、この義興を大将に取り立て、三万余騎にて奥州の国司に力を合はせ、鎌倉を攻め落として吉野へ参じたりしかば、先帝叡覧あつて、「まことに武勇ぶようの器用たり。もつとも義貞が家をも興こすべき者なり」とて、童名わらべな徳寿丸とくじゆまると申ししを、御前おんまへにて元服させられて、新田左兵衛の佐義興とぞ召されける。器量きりやう人に勝れはかりこと巧みに心飽くまで早かりしかば、正平七年の武蔵野の合戦、鎌倉かまくらの軍にも大敵を破り、万卒ばんそつに当たる事、古今未だ聞かざるところ多し。




その後水練([水泳の達人])を川に入れて、兵衛佐殿(新田義興よしおき。新田義貞の次男)ならびに自害討ち死にの首十三を捜し出し、酒に浸して、江戸遠江守(江戸長門ながかど?)・同じく下野守・竹沢右京亮は五百余騎で、左馬頭殿(足利基氏もとうぢ。足利尊氏の四男)がおられる武蔵の入間川の陣へ馳せ参りました。畠山入道(畠山国清くにきよ=道誓)はたいそうよろこんで、小俣少輔次郎・松田・河村を呼び出してこれを見せると、「間違いなく兵衛佐殿でございます」と申して、この三四年前に、数日相馴れた事などを話しながら皆涙を流しました。これを見る人はよろこびの中にも悲しみを覚えて、ともに袖を濡らしました。この義興と申す人は、故新田左中将義貞(新田義貞)の思い者の腹の子でしたので、越後守義顕(新田義顕。新田義貞の長男)が討たれた後も、義貞は義興を嫡子には立てず、三男武蔵守義宗(新田義宗。義貞の三男)を六歳の時より昇殿させて栄えたので、義興はまるでないかのように、孤子として上野国に住んでいました、奥州国司顕家卿(北畠顕家)が、陸奥国より鎌倉へ攻め上る時、義貞に心ざしある武蔵・上野の兵どもを、この義興を大将に取り立てました、三万余騎で奥州国司に力を合わせ、鎌倉を攻め落として吉野へ参ると、先帝(第九十六代、南朝初代後醍醐天皇)は叡覧あって、「まことに武勇に勝れる者よ。義貞の家を興こすべき者となろう」と申して、童名を徳寿丸と申しましたが、御前で元服させて、新田左兵衛佐義興と名付けられました。器量([能力])は人に勝れ謀略巧みにして理解の早い者でしたので、正平七年(1352)の武蔵野合戦、鎌倉の軍でも大敵を破り、万卒と戦いました、古今いまだに聞いたことはありませんでした。


続く


by santalab | 2016-02-12 07:54 | 太平記

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