翌日六月六日、東寺より二条の内裏へ還幸成つて、その日先づ臨時の宣下あつて、足利治部の大輔高氏治部卿に任ず。舎弟兵部の大輔直義左馬の頭に任ず。さるほどに千種の頭の中将忠顕朝臣、帯剣の役にて、鳳輦の前に被供奉けるが、なほ非常を慎む最中なればとて、帯刀の兵五百人二行に被歩。高氏・直義二人は後乗に従つて、百官の後に被打。衛府の官なればとて、騎馬の兵五千余騎、甲冑を帯して被打。その次に宇都宮五百余騎、佐々木の判官七百余騎、土居・得能二千余騎、この外正成・長年・円心・結城・長沼・塩冶以下諸国の大名は、五百騎・三百騎、その旗の次に一勢一勢引き分けて、輦輅を中にして、閑かに小路を打つたり。およそ路次の行装、行列の儀式、前々の臨幸に事替はつて、百司の守衛厳重なり。見物の貴賎巷に満ちて、ただ帝徳を頌し奉る声、洋々として耳に満てり。
翌日六月六日、東寺(現京都市南区にある教王護国寺)より二条富小路内裏に還幸なられて、その日まず臨時の宣下があり、足利治部大輔高氏(足利高氏)を治部卿に任命しました。舎弟兵部大輔直義(足利直義)を左馬頭に任じました。やがて千種頭中将忠顕朝臣(千種忠顕)は、帯剣役として、鳳輦([屋形の上に金銅の鳳凰を飾った輿。天皇の晴れの儀式の行幸用のもの])の前に供奉しましたが、なおも非常を警戒する最中なればと、帯刀の兵五百人が二列で警護しました。高氏・直義二人は後乗り([行列の最後尾を騎馬で行くこと])に付いて、百官の後に付きました。衛府の官として、騎馬の兵五千余騎が、甲冑を帯して続きました。佐々木判官(佐々木道誉)は七百余騎、土居(土居通増)・得能(得能通綱)は二千余騎、このほか正成(楠木正成)・長年(名和長年)・円心(赤松則村)・結城(結城宗広)・長沼(長沼秀行)・塩冶(塩冶高貞)以下諸国の大名が、五百騎・三百騎、その旗の次に一勢一勢分かれて、輦輅([天子の車])を中にして、閑々と小路を騎馬で進みました。およそ路次の行装([外出の際の服装])、行列の儀式は、前々の臨幸とはうって変わって、百司の守衛は厳重でした。見物の貴賎は巷に満ちて、ただ帝徳を褒めたたえる声が、洋々([物事の盛んな様])と耳に満ちました。
(続く)