山臥大きに腹を立て柿の衣の露を結んで肩に懸け、澳行く舟に立ち向かつて、苛高誦珠をさらさらと押し揉みて、「一持秘密咒、生々而加護、奉仕修行者、猶如薄伽梵と云へり。況や多年の勤行に於いてをや。明王の本誓誤らずば、権現金剛童子・天竜夜叉・八大龍王、その船こなたへ漕ぎ返して賜ばせ給へ」と、跳り上がり跳り上がり肝胆を砕いてぞ祈りける。行者の祈り神に通じて、明王擁護やし給ひけん、澳の方より俄かに悪風吹き来たつて、この舟忽ちに覆へらんとしける間、舟人どもあはてて、「山臥の御房、先づ我らを御助け候へ」と手を合はせ膝を屈め、手に手に舟を漕ぎ戻す。汀近く成りければ、船頭舟より飛び下りて、児を肩に乗せ、山臥の手を引いて、屋形の内に入りたれば、風はまた元の如くに直りて、舟は湊を出でにけり。
山伏はたいそう腹を立てて柿の衣([山伏などが着る柿色の衣])の露([狩衣・水干などの袖くくりのひものたれた端])を結んで肩に懸け、沖行く舟に向かって、苛高誦珠([そろばんの玉のように平たくて角の高い玉を連ねた数珠。修験者が用いる])をさらさらと揉みながら、「一度秘密咒(不動真言)を唱えれば、永遠の加護を受ける、奉仕の修行者は、薄伽梵([仏の称号])に値すると言う。申すまでもなく多年勤行を積んでおる身なれば。不動明王の本誓が正しくば、権現金剛童子([八大金剛童子]=[不動明王の使者])・天竜夜叉([天龍八部衆]=[仏法を守護する八神]の一)・八大龍王([天竜八部衆に所属する竜族の八王])よ、その船をこちらに漕ぎ返してほしい」と、躍り上がり躍り上がり一心に祈りました。行者の祈りが神に通じて、明王が擁護したのか、沖の方より急に悪風が吹いて、舟はたちまち転覆しようとしたので、舟人どもはあわてて、「山伏の御房、ともあれ我らをお助けください」と手を合わせ膝を屈めて、手に手に舟を漕ぎ戻しました。水際近くなれば、船頭は舟より飛び下りて、児(阿新丸)を肩に乗せ、山伏の手を引いて、屋形の内に入れると、風はまた元の如く順風になって、舟は湊を出ました。
(続く)