同じき年の六月八日、東使三人の僧たちを具足し奉つて、関東に下向す。かの忠円僧正と申すは、浄土寺慈勝僧正の門弟として、十題判断の登科、一山無双の碩学なり。文観僧正と申すは、元は播磨の国法華寺の住侶たりしが、壮年の頃より醍醐寺に移住して、真言の大阿闍梨たりしかば、東寺の長者、醍醐の座主に補せられて、四種三密の棟梁たり。円観上人と申すは、元は山徒にておはしけるが、顕密両宗の才、一山に光あるかと疑はれ、智行兼備の誉れ、諸寺に人なきが如し。
同じ年(元徳三年(1331))の六月八日に、東使([鎌倉時代に鎌倉幕府から京都にある朝廷や六波羅探題、関東申次などに派遣された使者])が三人の僧たちを具足して、関東に下向しました。かの忠円僧正と申すは、浄土寺の慈勝僧正の門弟として、十題判断の登科([非常に優れた人])、一山無双の碩学([修めた学問の広く深い人])でした。文観僧正と申すのは、元は播磨国法華寺の住侶でしたが、壮年の頃より醍醐寺(現京都市伏見区にある寺院)に移住して、真言の大阿闍梨となり、東寺(現京都市南区にある教王護国寺)の長者、醍醐の座主に補せられて、四種三密の棟梁でした。円観上人と申すのは、元は山徒([比叡山の僧])でしたが、顕密両宗の才は、一山に光ある如く、智行兼備の誉れは、諸寺に比べる人はいませんでした。
(続く)