これに付けても、今は何に頼みを懸けてか命を可惜なれば、各々討ち死にして名を後代にこそ残すべかりけるに、責めての業のほどの浅ましさは、阿曾の弾正少弼時治・大仏右馬の助貞直・江馬遠江の守かみ・佐介安芸の守を始めとして、宗との平氏十三人、並びに長崎四郎左衛門の尉・二階堂出羽の入道道蘊以下・関東権勢の侍五十余人、般若寺にして各々入道出家して、律僧の形に成り、三衣を肩に懸け、一鉢を手に提げて、降人に成つてぞ出でたりける。定平朝臣これを請け取つて、高手小手に戒め、伝馬の鞍坪に縛り屈めて、数万の官軍の前々を追つ立てさせ、白昼に京へぞ被帰ける。平治には悪源太義平、平家に被生捕て首被刎、元暦には内大臣宗盛公、源氏に被囚て大路を被渡。これは皆戦ひに臨む日、あるひは敵に被議、あるひは自害に隙なくして、心ならず敵の手に懸かりしをだに、今に至るまで人口の嘲りと成つて、両家の末流これを聞く時、面を一百余年の後に令辱。いはんやこれは敵に被議たるにもあらず、また自害に隙なきにもあらず、勢ひいまだ尽きざる先に自ら黒衣の身と成つて、遁れぬ命を捨て兼ねて、縲紲面縛の有様、前代未聞の恥辱なり。
それにしても、今は何に頼みを懸けても命を惜しむべきではありませんでした、各々討ち死にして名を後代に残すべきでしたが、業のほどの浅ましさといいましょうか、阿曾弾正少弼時治(阿蘇時治=北条時治)・大仏右馬助貞直(大仏貞直=北条貞直)・江馬遠江守(?)・佐介安芸守(北条 貞俊?)をはじめとして、主な平氏十三人、並びに長崎四郎左衛門尉(長崎高貞)・二階堂出羽入道道蘊(二階堂貞藤)以下・関東権勢の侍五十余人は、般若寺(現奈良市北部奈良坂に位置する寺院)で各々入道出家して、律僧の姿になって、三衣([袈裟])を肩に懸け、一鉢を手に提げて、降人となりました。定平朝臣(中院定平)はこれを請け取って、高手小手([両手を後ろに回し,首から肘・手首に縄をかけて厳重に縛り上げること])に束縛し、伝馬([逓送=通信や荷物などを人の手から手へ順送りにすること。用の馬])の鞍坪に縛り付けて、数万の官軍の前に立て、白昼に京に帰りました。平治には悪源太義平(源義平。源頼朝の兄)が、平家に生け捕られて首を刎ねられ、元暦には内大臣宗盛公(平宗盛。平清盛の三男)、源氏に囚らわれて大路を渡されました。これは皆戦いに臨み、あるいは敵に促され、あるいは自害に隙なくして、心ならずも敵の手に懸かったものでしたが、今に至るまで人口の嘲りとなって、両家の末流はこれを聞いては、面を百余年の後となっても恥ずかしく思いました。言うまでもなくこれは敵に促されたのでもなく、また自害の隙がなかった訳でもありませんでした、勢いいまだ尽きぬ前に自ら黒衣の身となって、遁れぬ命を捨てかねて、縲紲([罪人として捕らわれること])面縛([両手を後ろ手にして縛り、顔を前に突き出してさらすこと])となったことは、前代未聞の恥辱でした。
(続く)