同じき七月十三日に、三人の僧たち遠流の在所定まつて、文観僧正をば硫黄が嶋、忠円僧正をば越後の国へ流さる。円観上人計りをば遠流一等を宥めて、結城上野入道に預けられければ、奥州へ具足し奉り、長途の旅にさすらひ給ふ。左遷遠流と云はぬ計りなり。遠蛮の外に遷されさせ給へば、これもただ同じ旅程の思ひにて、肇法師が刑戮の中に苦しみ、一行阿闍梨の火羅国に流されし、水宿山行の悲しみもかくやと思ひ知られたり。名取川を過ぎさせ給ふとて上人一首の歌を詠み給ふ。
陸奥の うき名取川 流れ来て 沈みやはてん 瀬々の埋れ木
同じ(元徳三年(1331))七月十三日に、三人の僧たちの遠流の在所が定まって、文観僧正は硫黄島(現鹿児島県鹿児島郡三島村?)、忠円僧正は越後国へ流しました。円観上人ばかり遠流一等を減刑して、結城上野入道(結城朝光)に預けると、奥州して具足し、長途の旅にさすらいました。左遷遠流と言わぬばかりのことでした。遠蛮の地に移ることになって、円観上人もまた同じ旅程の思いをなして、筆法師(?)が刑戮に苦しみ、一行阿闍梨(唐玄宗皇帝の護持僧)が火羅国(吐火羅国。トハリスタン)に流された、水宿山行の悲しみもこのようなものであったかと思い知られるのでした。名取川(現宮城県仙台市および名取市を流れ、太平洋に注ぐ一級河川)を過ぎようとして円観上人は一首の歌を詠みました。
陸奥の憂き名を流しにここまでやって来たが、再び帰ることなく、瀬々の埋れ木と沈んでしまうのであろうか。
(続く)