五月二十七日には、播磨の国書写山へ行幸成つて、先年の御宿願を被果、諸堂御順礼の次に、開山性空上人の御影堂を被開に、年来秘しける物と思えて、重宝ども多かりけり。当寺の宿老を一人召して、「これは如何なる由緒の物どもぞ」と、御尋ねありければ、宿老畏つて一々にこれを演説す。先づ杉原一枚を折つて、法華経一部八巻並びに開結の二経を細字に書きたるあり。これは上人寂寞の扉におはしまして妙典を読誦し給ひける時、第八の冥官一人の化人と成つて、片時のほどに書きたりし御経なり。また歯禿びて僅かに残れる杉の屐あり。これは上人当山より毎日比叡山へ御入堂の時、海道三十五里の間を一時が内に歩ませ給ひし屐なり。
五月二十七日には、(第九十六代後醍醐天皇は)播磨国書写山(現兵庫県姫路市にある園教寺)へ行幸されて、先年の宿願を果たされ、諸堂順礼の折に、開山性空上人(平安時代中期の天台宗の僧)の御影堂を開かれると、年来の秘物と思えて、重宝が数多くありました。当寺の宿老を一人召して、「これはどのような由緒の物どもぞ」と、訊ねられると、宿老は畏って一々に説明しました。まず杉原([杉原紙]=[鎌倉時代以降、播磨国杉原谷村=現兵庫県多可郡多可町。で産した紙])を一枚折って、法華経一部八巻ならびに開結([開結経]=[本経の前に読む開経と、後に読む結経。法華三部経では開経が無量義経、結経が観普賢経])の二経を細字で書いたものがありました。これは性空上人が寂寞([静かでひっそりとしている様])の扉にて妙典([優れた教えを説いた経典])を読誦された時、第八(無間地獄。地獄の最下層)の冥官([地獄の閻魔の庁の役人])が一人の化人となって、片時のほどに書いた経でした。また歯がちびてわずかに残る杉の屐([下駄])がありました。これは性空上人が当山より毎日比叡山へ入堂の時、海道(街道)三十五里の間を一時(二時間)の間に歩まれた下駄でした。
(続く)