同じき十三日義貞朝臣敦賀が津に着き給へば、気比の弥三郎大夫三百余騎にて御迎ひに参じ、東宮・一宮・総大将父子兄弟を先づ金崎の城へ入れ奉り、自余の軍勢をば津の在家に宿を点じて、長途の窮屈を相助く。ここに一日逗留あつて後、この勢一所に集まり居ては敵はじと、大将を国々の城へぞ分けられける。大将義貞は東宮に付き参らせて、金崎の城に止まり給ふ。子息越後の守義顕には北国の勢二千余騎を添へて越後の国へ下さる。脇屋右衛門の佐義助は千余騎を添へて瓜生が杣山の城へ遣はさる。これは皆国々の勢を相付けて、金崎の後詰めをせよとのためなり。
同じ十月十三日に義貞朝臣(新田義貞)が敦賀の津(現福井県敦賀市)に着くと、気比弥三郎大夫(気比氏治)が三百余騎で迎いに参り、東宮(恒良親王)・一宮(尊良親王)・総大将父子(新田義貞・義顕)兄弟をまず金崎ヶ城(現福井県敦賀市)に入れ、自余の軍勢を津の在家を宿を用意して、長途の窮屈([思うようにふるまえず気詰まりであること])をねぎらいました。ここに一日逗留した後、勢が一所に集まっていてはよくないと、大将を国々の城に分けました。大将義貞は東宮とともに、金崎ヶ城に留まりました。子息越後守義顕には北国の勢二千余騎を添えて越後国に下しました。脇屋右衛門佐義助には千余騎を添えて瓜生の杣山城(現福井県南条郡南越前町にあった城)に遣わしました。これは皆国々の勢を付けて、金崎城の後詰め([敵の背後に回って攻めること])をさせるためでした。