大手・搦め手の寄せ手これを見て、「すはや大塔の宮の御自害あるは。我先に御首を給はらん」とて、四方の囲みを解いて一所に集まる。その間に宮は差し違へて、天の河へぞ落ちさせ給ひける。南より廻りける吉野の執行が勢五百余騎、多年の案内者なれば、道を要りかさに廻りて、打ち留め奉らんと取り篭むる。村上彦四郎義光が子息兵衛蔵人義隆は、父が自害しつる時、共に腹を切らんと、二の木戸の櫓の下まで馳せ来たりたりけるを、父大きに諌めて、「父子の義はさる事なれども、しばらく生きて宮の御先途を見果て進らせよ」と、庭訓を残しければ、力なくしばらくの命を延べて、宮の御供にぞ候ひける。
大手([敵の正面を攻撃する軍勢])・搦め手([城の裏門や敵陣の後ろ側を攻める軍勢])の寄せ手はこれを見て、「なんと大塔宮(護良親王)が自害されたぞ。我が先に首を賜わろう」と、四方の囲みを解いて一所に集まりました。その間に宮は入れ違いに、天川(現奈良県吉野郡天川村)に落ちて行きました。南より廻っていた吉野の執行の勢五百余騎は、多年の案内者でしたので、道を横切ってかさ(笠?)に回って、打ち止めようと取り囲みました。村上彦四郎義光(村上義光)の子息兵衛蔵人義隆(村上義隆)は、父が自害した時、ともに腹を切ろうと、二の木戸の櫓の下まで馳せ来ましたが、父が大声で諌めて、「父子の義はもっともではあるが、しばらく生きて宮(護良親王)の先途を見果て参らせよ」と、庭訓([家庭での教訓])を残したので、仕方なくしばらくの命を長らえて、大塔宮の供をしました。
(続く)