落ち行く道の軍、事既に急にして、打ち死にせずば、宮落ち得させ給はじと思えければ、義隆ただ一人蹈み留まりて、追つて懸かる敵の馬の諸膝薙いでは切り据へ、平首切つては刎ね落とさせ、九折りなる細道に、五百余騎の敵を相受けて、半時許りぞ支へたる。義隆、節、石の如くなりといへども、その身金鉄ならざれば、敵の取り巻いて射ける矢に、義隆既に十余箇所の疵を被りてけり。死ぬるまでもなほ敵の手に懸からじとや思ひけん、小竹の一叢ありける中へ走り入つて、腹掻き切つて死にけり。村上父子が敵を防ぎ、討ち死にしけるその間に、宮は虎口に死を御遁れあつて、高野山へぞ落ちさせ給ひける。
落ち行く道の軍に、事すでに急を要し、討ち死にしなければ、大塔宮(護良親王)は落ち得ずと思えて、義隆(村上義隆。村上義光の子)はただ一人踏み留まって、追って懸かる敵の馬の諸膝を薙いでは斬り据え、平首を斬っては跳ね落とし、九十九折の細道で、五百余騎の敵を受けて、半時ばかり防ぎました。義隆は、節は、石のように固いものでしたが、その身は金鉄ではありませんでしたので、敵が取り巻いて射る矢に、義隆は十余箇所の疵を負いました。死ぬとも敵の手に懸かるまいと思ったか、小竹が一叢ある中へ走り入ると、腹を掻き切って死にました。村上父子(村上義光・義隆)が敵を防ぎ、討ち死にするその間に、大塔宮は虎口に死を遁れて、高野山に落ちて行きました。
(続く)