卯月の二十八日に大内、やうやう造り出だして、渡らせ給ふ。白銀の台玉の御階、磨き立てられたる有様、いと清らにて、明らけき御世の曇りなきも、いとど顕れ侍るなるべし。御格子も、御簾も新しく、かけ渡されたるに、雲の上人の夏衣御達の用意などいとどすずしげになん侍りける。大宮も入らせ給ふ。春宮も渡らせ給ひて、梅壺にぞおはします。入道大臣の四の君は、威子の尚侍と聞こえ給ひし、今宵女御に参り給ひて、藤壺におはします。神無月の十日余りの頃、后に立たせ給ふ。国母も、后も姉妹におはしませば、いと類なき御栄えなるべし。二十二日に上東門院に御幸ありて、桂を折る心見せさせ給ふ。題、霜を経て菊の精を知る。また緑の松、色を改むる事なし。などぞ聞こえし。太政大臣奉らせ給へるとなん。
卯月([陰暦四月])の二十八日に大内裏が、ようやく造られて、後一条天皇(第六十八代天皇)がお移りになられました。白銀の高台玉の御階([紫宸殿の南階段])の、その美しさと申しましたら、とても清らかで、輝いて世に曇りない様を、表しているようでございました。御格子([建具])も、御簾も新しく、掛け渡されて、雲上人([殿上人])の夏衣御達([上級女房])などもいっそうすずしげに見えました。大宮(第六十六代一条天皇皇后、藤原彰子)も移られました。春宮(敦良親王。後一条天皇の弟)も渡られて、梅壺([凝華舎]=[平安京内裏五舎の一。内裏西北隅近くにある女官用の部屋])に住まわれました。入道大臣(藤原道長)の四の君(四女)は、威子尚侍と呼ばれておりましたが、この夜(後一条天皇の)女御に参られて、藤壺([飛香舎]=[平安京内裏五舎の一。清涼殿の西北方にあり、中宮や女御の住まい])に住まわれました。神無月([陰暦十月])の十日余りの頃、后に立たれました。国母(彰子)も、后も姉妹ですれば、ご一門は例もないほどの栄華にございました。二十二日に後一条天皇は上東門院(彰子)の許に御幸されて、桂を折る([官吏登用試験に合格すること]。ここでは漢詩の才能)ほどの才能を披露なさいました。題は、霜を経て菊の精を知る。また緑の松、色を改むることなし。などと聞こえました。太政大臣(藤原頼通。藤原道長の長男)が選ばれたということでございます。