同じき四月十八日、吉野の新待賢門の女院隠れさせ給ぬ。一方の国母にておはしければ、一人を始め参らせて百官皆椒房の月に涙を落とし、掖庭の露に思ひを砕く時節、いかにありける事ぞやとて、涙を拭ひけるところに、また同じき年五月二日、梶井の二品親王御隠れありければ、山門の悲歎、竹苑の御歎きさらに類なし。これらは皆天下の重き歎きなりしかば、知るも知らぬも押し並べて、世の中いかがあらんずらんと打ちひそめき、洛中・山上・南方、打ち続きたる哀傷、蘭省露深く、柳営煙暗くして、台嶺の雲の色悲しんで今年はいかなる年なれば、高き歎きの花散りて、陰の草葉に懸かるらんと、僧俗男女ともに押し並べて袖をぞ絞りける。
同じ正平十三年(1358)四月十八日(史実では正平十四年四月二十九日)、吉野の新待賢門(第九十六代後醍醐天皇の后、阿野廉子)がお隠れになりました。一方(南朝)の国母(南朝第二代後村上天皇の生母)でしたので、一人(関白。時の関白は九条道教)をはじめ参り百官は皆椒房([椒壁の房室」=[皇后の御所])の月に涙を流し、掖庭([皇妃・宮女のいる所])の露にただただ悲しむばかりでしたが、いったい何故あってのことか、涙を拭うところに、また同じ年の五月二日、梶井二品親王(第九十三代後伏見天皇の第四皇子、尊胤法親王)がお隠れになって、山門(比叡山)の嘆き悲しみ、竹苑([竹の園]=[皇族])の嘆きはさらに類ないものでした。これらはすべて天下の大きなな悲しみでしたので、知る者も知らない者もすべて、世の中はどうなることだろうとささやき合い、洛中(京)・山上(比叡山)・南方(奈良)と、
うち続く哀傷([人の死を悲しみ嘆くこと])は、蘭省([皇后の住む宮殿])では露深く、柳営([将軍家])では煙暗くして、台嶺([比叡山])の雲も悲しみの色をして今年はどんな年なのだろう、嘆き深く花は散り、草葉の陰に落ちるのだろうかと、僧俗男女ともに皆袖を絞りました。
(続く)