相摸の守は元来敵に少しも言葉をかけられて、堪らぬ気の人なりければ、桃井と名乗つたるを聞きて、少しも擬議せず、これもただ一騎馬を引つ返して歩ませ寄る。相近になりければ、互ひにあはれ敵や、天下の勝負ただ我とかれとが死生にあるべし。馬を駆け合はせ、組んで勝負をせんと、鎧の綿嚼を掴んで引き付けたるに、言葉には似ず桃井が力弱く思へければ、兜を引き切つて投げ捨て、鞍の前輪に押し当てて、首掻き切つてぞ差し上げたる。やがて相摸の守の郎従十四五騎来たるに、この首と母衣とを持たせて将軍の御前へ参り、「清氏こそ桃井播磨の守を討つて候へ」とて軍の様を申されければ、蝋燭を明らかに燈しこれを見給ふに、年のほどはさもやと思へながらさすがそれとは見へず、田舎に住みて早や多年になりぬれば面替はりしけるにやと不審にて、昨日降人に出でたりける八田左衛門太郎と言ひける者を召され、「これをば誰が首とか見知りたる」と問はれければ、八田この首を一目見て、涙をはらはらと流し、「これは越中の国の住人に二宮兵庫の助と申す者の首にて候ふ。去月に越前の敦賀に着きて候ひしこの時、二宮、気比の大明神の御前にて、今度京都の合戦に、仁木・細川の人々と見るほどならば、我桃井と名乗つて組んで勝負を仕るべし。これもし偽り申さば、今生にては永く弓矢の名を失なひ後生にては無間の業を受くべしと、一紙の起請を書きて宝殿の柱に押して候ひしが、果たして討ち死に仕りけるにこそ」と申しければ、その母衣を取り寄せて見給ふに、げにも、「越中の国の住人二宮兵庫の助、曝尸於戦場、留名於末代」とぞ書きたりける。昔の実盛は鬢鬚を染めて敵に合ひ、今の二宮は名字を替へて命を捨つ。時代隔たるといへどもその心ざし相同じ。あはれ剛の者かなと惜しまぬ人こそなかりけれ。
相摸守(細川清氏)は元より敵にわずかも言葉をかけられては、我慢ができない人でしたので、桃井(桃井直常)と名乗るのを聞いて、少しも擬議([躊躇すること])せず、これもただ一騎馬を引き返して歩み寄りました。近付いて、互いによき敵よ、天下の勝負はただ両者の死生に決することであろう。馬を駆け合わせ、組んで勝負をしようと、鎧の綿嚼([鎧の前面と背面とをつなぎ、左右の肩にかけて全体を吊るす部分])を掴んで引き付けましたが、言葉には似ず桃井の力は弱かったので、兜を引き切って投げ捨て、鞍の前輪に押し当てて、首を掻き切って差し上げました。やがて相摸守の郎従十四五騎がやって来たので、この首と母衣([甲冑の背につけた幅の広い布で、風にはためかせたり、風をはらませるようにして、矢などを防ぐもの])を持たせて将軍(足利尊氏)の御前に参り、「この清氏が桃井播磨守を討ちました」と申し軍の様子を伝えると、されければ、蝋燭を明るく燈して確認すると、年のほどはもしやと思えながらもさすがにそれとも見えず、田舎に住んで多年になれば面替わりしたかと怪しみ、昨日降人となって出た八田左衛門太郎という者を呼び、「これが誰の首か知っておるか」と訊ねると、八田はこの首を一目見て、涙をはらはらと流し、「これは越中国の住人で二宮兵庫助と申す者の首でございます。先月に越前の敦賀に着いてより、二宮は、気比大明神(現福井県敦賀市にある気比神宮)の御前で、今度の京都の合戦で、仁木・細川の人々と見れば、桃井と名乗って組んで勝負をいたしましょう。これが偽りならば、今生に永く弓矢の名を失ない後生で無間([無間地獄。八大地獄の第八、阿鼻地獄])の業を受けましょうと、一紙の起請([自分の言動に偽りのないことや約束に違背しないことを、神仏に誓って書き記した文書])を書いて宝殿の柱に押し付けておりましたが、果たして討ち死にするとは」と申したので、母衣を取り寄せて見れば、まこと、「越中国の住人二宮兵庫助、戦場に屍を晒し、名を末代に留めん」と書いてありました。昔の実盛(斎藤実盛)は鬢鬚を黒く染めて敵に合い、今の二宮は名字を偽って命を捨てました。時代を隔てるといえどもその心ざしは同じでした。なんと剛の者かなと惜しまぬ人はいませんでした。
(続く)