二月十五日の朝は、東山の勢ども上京へ打ち入つて、兵粮を取る由聞こへければ、蹴散らかさんとて、苦桃兵部の太輔・尾張の左衛門の佐、五百余騎にて東寺を打ち出で、一条・二条の間を二手に成つて打ち廻る。これを見て細川相摸の守清氏・佐々木の黒田判官、七百余騎にて東山より降をり下る。尾張の左衛門の佐が後陣に朝倉下野の守が五十騎許りにて通りけるを、追ひ切つて討たんと、六条河原より京中へ懸け入る。朝倉少しも不騒、馬を東頭に立て直して、閑かに敵を待ち懸けたり。細川・黒田が大勢これを見て、侮りにくしとや思ひけん。間半町計りに成つて、馬を一足にさつと懸け据ゑて、同音に鬨をどつと作る。朝倉少しも不擬議大勢の中へ懸け入つて、馬烟を立てて切り合ふ。左衛門の佐これを見て、「朝倉討たすな、続け」とて、三百余騎にて取つて返し、六条東洞院を東へ烏丸を西へ、追いつ返しつ七八度までぞ揉み合ひたる。細河度毎に被追立体に見へけるに、南部六郎とて世に勝れたる兵ありけるが、ただ一騎踏み止まつて戦ひ、返し合はせては切つて落とし、八方をまくりて戦ひけるに、左衛門の佐の兵ども、箆白に成つてぞ見へたりける。
二月十五日の朝、東山の勢どもが上京に打ち入り、兵粮を奪っていると聞こえたので、蹴散らそうと、苦桃兵部太輔・尾張左衛門佐は、五百余騎で東寺(現京都市南区にある教王護国寺)を打ち出て、一条・二条の間を二手になって打ち廻りました。これを見て細川相摸守清氏(細川清氏)・佐々木黒田判官(佐々木宗清)は、七百余騎で東山より降り下りました。尾張左衛門佐の後陣には朝倉下野守(朝倉高景)が五十騎ばかりで通るのを、追い切って討とうと、六条河原より京中に駆け入りました。朝倉は少しもあわてず、馬を東頭に立て直して、静かに敵を待ちました。細川(清氏)・黒田(佐々木宗清)の大勢はこれを見て、見くびることは出来ないないと思ったか、間半町ばかりになると、馬を一足にさっと駆け出て、同音に鬨をどっと作りました。朝倉少しも擬議([躊躇すること])せず大勢の中へ駆け入ると、馬煙を立てて斬り合いました。左衛門佐はこれを見て、「朝倉を討たすな、続け」と、三百余騎で取って返し、六条東洞院を東へ烏丸を西へ、追いつ返しつ七八度まで揉み合いました。細川(清氏)度毎に追い立てられるように見えました、南部六郎(南部政長)という世に勝れた兵がいましたが、ただ一騎踏み止まって戦い、返し合わせては斬って落とし、八方を追い立てて戦うと、左衛門佐の兵どもは、野白([密集していた人が、地面が見えるくらいにまばらになること])になりました。
(続く)