山門、すでに来たる二十八日六波羅へ可寄と定めければ、末寺・末社の輩は不及申、所縁に随つて近国の兵馳せ集まる事雲霞の如くなり。二十七日大宮の前にて着到を付けけるに、十万六千余騎と注せり。大衆の習ひ、大早り無極所存なれば、この勢京へ寄せたらんに、六波羅よも一溜まりも溜まらじ、聞き落ちにぞせんずらんと思ひ侮つて、八幡・山崎の御方にも不牒合して、二十八日の卯の刻に、法勝寺にて勢撰へ可有と触れたりければ、物の具をもせず、兵粮をも未だ使はで、あるひは今路より向かひ、あるひは西坂よりぞ降り下る。両六波羅これを聞いて、思ふに、山徒たとひ雖大勢、騎馬の兵一人も不可有。こなたには馬上の射手を撰へて、三条河原に待ち受けさせて、懸け開き懸け合はせ、弓手・馬手に着けて追ふ物射に射たらんずるに、山徒心は雖武、歩立ちに力疲れ、重鎧に肩を被引、片時が間に疲るべし。これ以小砕大、以弱拉剛行なりとて、七千余騎を七手に分けて、三条河原の東西に陣を取つてぞ待ち懸けたる。
山門(延暦寺)では、すでに三月二十八日に六波羅へ寄すべしと定めて、末寺・末社の輩は申すまでもなく、所縁に従って近国の兵が雲霞の如く馳せ集まりました。二十七日に大宮の前で着到([着到帳]=[馳せ参じたことを示す書面])を記すと、十万六千余騎に及びました。大衆([僧])のことでしたので、大逸り([大いに勇み立つこと])は止まるところを知りませんでしたので、この勢で京へ寄せたなら、六波羅はよもや一溜まりも溜まるまい、聞き落ち([聞いただけで恐れて逃げだすこと])にしてやろうと侮って、八幡(現京都府八幡市)・山崎(現大阪府三島郡島本町)の味方にも知らせず、二十八日の卯の刻([午前六時頃])に、法勝寺(かつて現京都市左京区岡崎辺にあった寺院)に勢揃いせよと触れ回ったので、物の具([武具])も着けず、兵粮も持たずに、ある者は今路より向かい、ある者は西坂より降り下りました。両六波羅(北方、北条仲時。南方、北条時益)はこれを聞いて、思うところ、山徒がたとえ大勢であろうと、騎馬の兵は一人もいないであろう。ならばこちらは馬上の射手を揃えて、三条河原で待ち受けて、駆け開き駆け合わせ、弓手([左])・馬手([右])に付けて追物射([獣類を馬で追い騎射をする競技])に射たならば、山徒心は猛しといえども、歩立ちに疲れ、重鎧に肩を落として、片時の間に疲れるであろう。これ小を以って大を砕く、弱を以って剛を拉ぐ戦術であると申して、七千余騎を七手に分けて、三条河原の東西に陣を取って待ち懸けました。
(続く)